いやさき(最初)と、いやはて(最後)、の言葉というか単語を使いたかったので。だいぶ苦しいタイトルです。センスないのはもうバレているからいいもん……。
初日の出というには日が経ちすぎているので、それっぽい感じを……だね……。
「師匠! 早く、早く!」
「走らなくても間に合うから、急かさないでくれるかなぁ」
外套の裾を忙しなくはためかせ、花は孔明の手を引きながら外壁へと駆ける。徹夜でつづけていた仕事を途中で放り出しての所業に、しかし孔明は苦笑を浮かべるに留めた。
哨戒中の衛兵が敬礼して見送るのを横目にしながら、花はとにかく目的地を目指した。
外気は凍てつくように肌を刺し、駆け足に弾む白い吐息は暗い世界にひどく映える。目線の先に見える花の背中を眺めやって、孔明は笑いが止まらなかった。
松明に灯されていても足下は心許ない。城壁の階段前にやってくると、孔明は手を引いて興奮気味の彼女の気を引いた。
「慌てて昇ると転ぶよ」
揶揄を含んだ表情に、一瞬だが花が頬を膨らませる。
「師匠はすぐそうやって私を子ども扱いしますよね」
「分別のある大人は裾を乱して大股で走らないし、明け方近くに大声なんて出さないし。女児じゃなくて女人の扱いをしてほしいなら、それなりの態度ってものを見せてもらわないと」
「……はーい」
「返事は短く淑やかに」
孔明はそう言って、笑いを堪えているのだろう歩兵から松明を受け取り、足下を照らしながら憮然とした花の手を引いて階段を上がった。
世界はまだ眠りの中にある。花は消沈していた気分を改め、薄闇の横たわる広大な大地を眼下に見渡した。アスファルトで舗装された道路などがなければ、街灯や自動販売機などといった、元の世界で小さな灯りを供していたものも当然ない。今まで当たり前のようにあった電気やガスがなくても生きていける世の中には慣れた方だと思う。ときどきは現代生活で使用していた道具が恋しくなるけれど、なければないで構わず、他の方法を見つけられるようになった。
花は何もない虚空を見つめながら、重ねたままの孔明の手を軽く握り返す。それからちらとだけ隣人を盗み見れば、孔明はその視線に気づいたのか、にこりと目を細めて笑い返した。
親もなく、友もなく、生まれた世界で自身の存在がどんなふうに扱われているのかはわからない。哀しんでいないだろうか。泣いていないだろうか。そうやって考えれば考えるだけ後悔は少しずつでも募るのだけれど、こうして孔明の些細な感情の変化を目の当たりにするとそれらが霧消してしまうのだからどうしようもない。
元の世界より孔明を選んだ。あの瞬間の決断は、きっと親よりも伴侶を選んだようなものなのかもしれないと花は思った。
「もうそろそろかな」
「え、どっちですか? どこですか?」
「正面。そのまま見てな」
忙しなく首を振る花に、孔明は遠慮なく笑った。
遠くの山間の輪郭が、昇り始めた太陽の光によって浮かび上がってくる。時間をかけて、ゆっくりと。
沈黙を保ったまま東の空を凝視する二人は、握りあった手へ同時に力を込めた。それはとても微弱であったけれど、互いの存在を知るには充分だった。
「……すごいです」
「そうだね。人の世で自然に勝るものなどない」
花の口からもれた小さな感嘆に、孔明は彼女と同じく正面を見据えながら薄く笑った。
大地に横たわる闇が、力強い光明で塗り替えられてゆく。生まれ来る世界。――新しい世の始まり。
まるで出会ってからこれまでのことを、さらにこの先の将来を物語っているようだと、そう思ったけれど、あまりにも陳腐な表現に、孔明はそれを口にすることなく飲み込んだ。
輝かしい光に染まる花の横顔を、彼女が気づくまでじっと見つめる。
「何ですか?」
「好きだよ」
「――い、きなり、何ですか。どうしちゃったんです?」
「言いたくなったから。……好きだよ、奥さん。愛してる。ボクの傍にいてくれてありがとう」
花の瞳はおそらく極限まで見開かれているが、孔明はそれを揶揄することなく、穏やかに微笑んで視線を絡ませた。
「な……っ、し、しょ」
「君の顔、すごく真っ赤だ」
「し、師匠だって、赤い、です!」
「うん。朝日に照らされているから、君とお揃いだね」
だから、わからない。孔明が昇り行く太陽の眩しさに目を細めてつぶやいた。
滅多に口にすることのなかった恥ずかしい科白だって、今ならからかわれることなく率直に言える。
募るだけ募った想いを、感謝を、まっすぐ目を見て告げられる、と。
にこりと笑って見せると、当惑した花は空いていたほうの手をわななく唇に当てた。世界を満たし始めたばかりの光はひどく煌いて射しているけれど、彼女の頬が通常より紅潮していることくらいは判別可能だ。
その表情を、愛おしく思う。言葉ひとつ、態度ひとつ、投げかけることを受け止めて現してくれる彼女の素直な感情がこころを震わせる。
「ありがとう、誘ってくれて」
「う、……あ……の」
「徹夜はよくするけど、こういうふうに朝日を見ることはなかったから。新鮮だった」
「……無理しないで、くださいね」
「うーん、前向きに検討しておきます、と言っておこうかな」
仕事だからねとおどけて肩を竦めると花は笑った。その笑みは視界の端にある陽と同等にまぶしいと孔明には思える。彼女がすでに孔明にとっての世界の一部であり、またはそのものであるなどと告げたなら、彼女は恥らうか怒るのだろうけれど。
握り合ったままの手を離さず、2人は再び太陽を拝む。直射を遮るように手を翳して尊い光を浴び続けた。
――忘れない。互いの存在を形成した世界の断片は余さず覚えていよう。
期せずして出逢ったあの瞬間から、言葉も息も絶えるその間際まで。