またも時間がかかってしまいました。楽しかったのですがそこだけがネック。精進します……
猫と花と文若さん。今回ちょっぴり丞相も参加。
文若さん、格好良いところがないような、かすかにあるような、そんな感じです。文若さんを格好良く!を目指しましたが如何でしょうか。猫が入っている時点で無理っぽい気もしましたが頑張ってみました自分で言っててすばらしく恥ずかしい。
リクエスト、ありがとうございました! わずかにでもお楽しみいただければ幸いです。
執務室の扉が細かな音を立てていることに気づいた下官の1人がその姿を最初に発見した。わずかに押し開いた隙間から覗き見て確認を果たすと、彼はその場にしゃがんでやわらかな声をあげた。
「どうした? ここに鼠はいないぞ?」
「……何事だ」
筆を取りながら文若がその背後に問いかければ、彼はそれに向かい合わせたときの朗らかな表情のままで上司を振り返る。
「猫がおります。最近は見かけなかったのに、いったいどこから迷い込んでくるのでしょうね」
彼はさらりと官服の袖を払って扉を押してから足下を示す。室内に篭もった空気が入れ替わると同時に、回廊へぺたりと座っている1匹の三毛猫を視界に入れた途端、文若は思わず手から筆を取り落とした。嫌な音を立てて完成間近だった竹簡の上に転がったそれに、簡の整理をしていた別の下官が眉尻を下げて嘆息した。
それは予期せぬ登場だったといえよう。文若は眉間に深深と皺を寄せた。
何せ「あれ」は、邸に独りでいる淋しさを紛らわせるために飼うことをねだった花以外にはとても素っ気なく、彼女の手が及ばぬ間に面倒を見ている家人にさえ懐かない。甘ったれた鳴き声は彼女のみに向けられ、他のものには爪を立てて触れることすら許さぬ始末。
――主に妻だけなのだが、主人夫妻の愛玩動物として可愛がられているという側面をもって家人たちも笑って済ませているようなものだが、当の「あれ」は、自らをそういった立場として認識していないのでは、などと思ってしまう。
「あれ」はただの猫、だのに、まるで人語を理解しているが如くに振舞うので、やること為すことがいちいち癪に障るのだ。
金色の瞳が文若の顔を見つづける。鳴き声ひとつ立てずに座ったままひとの顔を凝視する猫など、花が可愛がっている「あれ」以外には居るまい。卓に向かったまま見つめ返していると、猫は視線を留めたままでぱたりぱたりと回廊を叩いてみせた。
あなたがこちらに来なさいよ。
何気ないことをそんなふうに受け取ってしまうのは、毒されすぎだろうか。
一向に止む気配のない音に文若は重い腰を上げた。ため息をつきながら猫を見下ろす。
「なぜお前が此処にいる?」
そうして猫に問いかける彼の背後の下官たちは、謹厳な尚書令が猫に話しかけている姿に顔を見合わせるも黙って事の成り行きを見守った。
またひとつ、ぱたりと尻尾を動かしてからおもむろに立ち上がった猫は、前足で文若の沓を踏み出した。目を眇めてその行動を眺めていた彼の目線がゆっくりと鋭くなっていく。
ここへ来る前に水場でも通ってきたのだろうか。沓とあわせて右裾の一部分、――猫が足を付けた箇所が泥で茶色く変色している。毎度のことながら嫌がらせも甚だしい。
踏みに踏み抜いてから猫は反対側の足下へ移動すると、そちらも同じように前足で踏み始める。まるで汚れを拭き取るかのように、指の間まで広げてぎゅうぎゅうと念入りに沓と裾とを汚していく。頭上の文若がこめかみや口端を引き攣らせだしたことを構う気配など無論ない。
首根っこを引っつかんで放り出してやろうか。花のように大事に抱きかかえてやる義理などない。そう思った文若が袖を軽く捲くって膝を折ったそのとき、猫は彼を見上げてから曲がった膝上に身体を伸ばして前足を乗せた。そして今の今まで銜えていたものをぽとりと落とす。
花弁の先が薄らと枯れかけた一輪の小さな白い花。
「何のつもりだ……?」
手にとって文若が問いかけると、猫は長い尻尾でぴしりと文若の足を叩いてからその場を離れていった。視線だけでそれを追うと、猫は回廊の先で立ち止まり、立てた長い尾を前後に揺らして文若を振り向いている。
――ついておいで。早くおいで。
ふてぶてしい顔つきのまま、ふてぶてしい鳴き声をひとつあげ、猫はじっと文若を見つめた。
「……少し席を外す。お前たちは続けていろ」
立ち上がった文若は室内の下官にそう告げると、扉をいつもより乱暴に閉じて足早に去っていった。忙しない沓音が遠ざかって聞こえなくなると、彼らは知らぬ間に止めていた息を吐き出した。
堅物の尚書令が猫と意思を疎通させていた!
俺たちは見た、と彼らが同僚に触れ回って笑われるのは、また別の話。
猫は軽やかな足取りで直線に伸びた回廊を進む。文若が追いつく寸前に再び駆け出し、距離を置いては付いてきているかを確認するが如くに振り返る。それを幾度か繰り返したのちに曲がり角までやってくると、猫は欄干の隙間からしなやかに身を滑らせて庭へと降りた。そこでまた後方の文若に向かって一度だけ短く鳴いてから青々と茂った生垣の中に姿を消した。地を蹴る足音が小さく遠くなっていく。
あの先には、さて、猫の興味を引くようなものなどあっただろうか。
猫を追うようにして庭へ降りた文若が首を捻りつつ、衣が枝に引っ掛かったりしないよう気を配しながら生垣の内を進んでいけば小高い鳴き声が小耳に届く。あの猫があのようになる相手などひとりしかいない。大雑把に裾を掴みあげた文若は歩幅を広げ、声のするほうへと急いだ。
「どこに行ってたの? 悪戯してきたんじゃないでしょうね?」
「あらら、帰ってきちゃったよ。……その上、邪魔者まで連れてきた」
生垣を抜けてたどり着いた先は、緑に囲まれてひっそりと佇む四阿だった。
そこには孟徳と花がいて、中央に設えられた小さな卓上には茶器と菓子を載せた皿がある。許で嫌と言うほど見慣れた景色が唐突に現れ、一瞬だが呼吸を忘れた。
文若さん。――そうして名を呼び、やわらかな笑みを浮かべる花の姿すら昔日と寸分も違わぬ。
しかし、しつこいほど花に向かって甘えた鳴き声をかけ続ける猫のお陰で、文若の意識は目の前の現実に留め置かれた。
一礼して四阿の内へ入り、執務室でおとなしく責務をこなしているかと思っていた孟徳をひと睨みしてから、ここにいるはずのない妻の傍へ寄って厳しい視線を彼女に転じた。
汚れの残る前足を手巾で拭いていた白い手は彼の怒気に触れて徐徐に動きを鈍くしていったが、孟徳との間に座っている猫の尾は、隙あらば距離を縮めようとしている彼の腕を遠慮なくぴしぱし叩いている。
まさかずっとこの調子だったのか。軽い頭痛を覚えたが、これはこれで2人の壁の役割を果たしていたのだろうと思えば、目を瞑らざるを得ない、かも知れない。
「何故お前がここにいるのだ」
「俺が呼んだ。遊びにおいでってね」
片手で椀を持ち上げた孟徳がさらりと言えば、花は肩を竦め、上目遣いで文若を見上げた。
「……すみません、でした」
表情が険しくなっていく夫の厳しい目つきに耐えられず花は身を縮ませる。立ち上がって位置を変えた猫は花を慰めるように顔を舐めだすが、尻尾は勢いよく左右に揺れて文若の下衣を叩き続けた。往復回数が重なるにつれて眉間の皺が多く深くなってゆく。
「文若、花ちゃんを怒るなよ。これだって、俺からの書を1人で読んで来てくれたんだぞ? 勉強が実を結んでいる証拠じゃないか」
「お言葉ですが、それは言い訳になりこそすれ、評価するには値しません」
「石頭め。花ちゃんを娶ってからさらに硬くなったんじゃないか?」
孟徳は呆れた口調で言い放ってから、手にしていた椀を傾けて中身を飲み干した。空になったそれを卓へ戻してついとその手を椅子に着くと、すぐさま猫が花の膝上を移動し、孟徳に対して警戒するように毛を逆立てて威嚇する。飼い主が駄目よとやさしく注意すれば、直線に立てていた尾を振り下ろして擦り寄った。喉を鳴らして花の腕に身体にと頭を擦りつけている傍らでは、隙間を詰めようとする孟徳の袖をやはり活発に叩いているのだけれど。
「あーあ、花ちゃんとゆーっくり話も出来なくて休憩も満足に出来ない挙句、目が細くて融通の利かない男に仕事仕事って追い回されるなんて、俺って本当に可哀想。花ちゃんもそう思わない?」
「え? え、えと……」
「丞相はこの四阿で如何程の刻を過ごされましたか」
「半刻」
「なれば腹には充分に茶が溜まり、憩になりましたでしょう。御身がこちらでお手を休めていらっしゃる間、本日中に裁可願いたいものを選別して急ぎお届け申し上げましたゆえ、部屋へお帰りいただきたい」
文若の刺々しい物言いに、しかし孟徳は鼻先で笑ってやり過ごす。空気が微妙になってきて多少の不安はあるものの、常なる遣り取りの延長線だと受け取る花は沈黙を守った。
ことあるごとに軽口を叩く孟徳へ、いちいち生真面目に応える文若。奇妙な組み合わせだが、主従とはいえ長年傍らにあったからこそ成せる応酬なのだろう。それをこうして見ていられることは幸福であると思えるが、どちらとも過ごした時が短い花にはその絆が少し羨ましくもあった。
孟徳と文若との間にだけ生まれる絆があれば、彼と花との間にしか生じぬ絆がある。手を覆い隠す長い袖の上から花はそろりと自身の左手を撫で、夫から贈られた結婚指輪の感触を確かめて小さく唇の端を持ち上げた。
2人の男が睨みあっている間中、猫は絶え間なく花に向かって鳴き続けた。甘え抜いていた声は切実な色を帯びて飼い主へひたすらに訴えかける。
もう帰りましょう。――早くおうちへ帰りましょう?
そう言っているようにしか聞こえない。文若は不本意ながら心中で激しく同意した。ついでのように顔を舐めるのは、まったくもっていただけないが。
互いに視線を逸らさぬままでいると、孟徳は壁に寄りかかって腕を組み、頬を膨らませるなど歳に見合わぬことをして不満を露わにした。
「帰るかどうかは彼女自身が決めるべきだ。――ねぇ、花ちゃん。もう少し俺に付き合わない?」
炎のような緋の袖が風を孕んでふわりと舞う。伸ばした孟徳の腕が向かう先は――もちろん、花だ。
袖口から現れた手が、きょとんとしたままの花の肩へと触れそうになった、その半瞬先。
「あ……」
孟徳との間合いを遮った袖が、それよりも遅れて振るわれた猫の尾の衝撃を受けて微かに揺れた。
視界を閉ざした黒色は文若の上衣の色。二対の瞳がそれぞれの思いで文若を見上げるが、前面に回られてしまったので、彼がこの行為をどんな表情で行ったのかはわからなかった。
「丞相のお手を煩わせるわけにはまいりません。妻は私が引き取ります」
「気の利かない男は飽きられるのも早いぞ、文若」
「――どうぞ、お戻りを」
常なる調子の孟徳の軽い言を、文若は硬質なままの声音で制した。
四阿を辞した2人は回廊を並び歩く。花に合わせて歩調はのんびりだった。
その2人の間を、同じ速度でついてくる猫は正面を見ながらも尻尾を元気に振っている。もちろん、その尾の向かう先は文若の足だ。動きに合わせているようで巧く当たっている。
苛苛している文若の渋面など見ずともわかってしまう花は、しょんぼりと顔を俯かせたまま歩いた。
「まったく。ここは朝政を執る場であって、遊戯場などではないのだぞ」
「……すみません」
「丞相からの誘いを簡単に受けるほど、暇を持て余していたのか」
ふと立ち止まった文若は、身を転じて花と向かい合う。案の定、眉間には見慣れた皺が刻まれていた。
「暇、ではなかったです。でも今日の分の勉強はきちんと終わっています。……孟徳さんからのお手紙を全部読めたので嬉しかったっていうのも、確かに理由のひとつです」
花は胸元に組んだ手をもじもじさせて視線を泳がせたのだが、正面のひとの細いと揶揄される目が鋭利になったのを感じた花は、彼の汚れた沓を見つめながら口を開いた。
「あの、文若さん? 沓が……」
「話を逸らすな。――丞相の書が理由のひとつ、ということは、他にも理由があるのだな?」
「は、はい。あるにはあるんですけど、その……」
怒られそうだから。今すでに怒られているのだけど、加えてとんでもない雷が落ちそうだから。
そうして花がつぶやくと、足元の猫が鳴き声を上げて彼女の足に頭を擦り付けだした。強張っていた顔や緊張が緩んだ花は、膝を軽く折って猫を抱き上げた。彼女の胸元で心地よさそうに目を閉じ、喉を鳴らしているその存在に、文若の機嫌は悪化の一途を辿るばかりである。
「はっきりしろ」
文若の厳しい声音に、花がびくりと身を震わせ、胸元の猫はぴんと耳を立てて金色の瞳を見開いた。話せはしないが、物言いたげに彼の双眸をじろりと見返す。
文句があるなら言い返してみるといい。文若はそう思いながら花と猫を見下ろした。
「し、仕事中の文若さんに会えるかなって思ったからですっ!」
「……何だと?」
「仕事中の文若さんってすっごく格好良いから、また見られるかなって思ったんです。最近はお手伝いにも呼んでくれませんし……。――あ、あの、だからって他のときの文若さんが格好悪いなんて思ってませんから! 仕事中は普段より特別っていうか格別っていうか! その……、……あの、だから……」
真摯な面持ちで執務に向かう横顔を特等席ともいえる場で眺めていた時間は確かに格別だったのだ。あのときめきは、言うなれば優越感。花だけが得られた特別。
額を押さえて俯いた文若に気づいた花は、とんでもないことを口走ってしまったと後悔した。さらに、彼の首筋や隠れきっていなかった耳などが真っ赤に染まっているのを見つけてしまって居た堪れない。
文若と同じように全身がひと息に熱くなったのを感じ、花は愛らしい鳴き声を立てる猫をぎゅっと抱きしめて沈黙をぎこちなく遣り過ごす。
しょぼくれた彼女を慰めでもしているのか、腕を撫でるようにゆらゆらと尻尾が揺れている。まだ熱の残る顔を覆いつつ、こそりと妻の様子を盗み見た文若はそれを険しい目で見咎め、さらにのほほんと腕に収まっている本体を睨んだ。
すると、心地良さそうにまどろんでいた眼が飼い主の伴侶に向かう。丸い金色の、まったく遠慮のない瞳に文若は目を眇めた。
抱擁が羨ましいのかと問うているのなら、答えは否だ。また、羨ましいだろうと得意になっているのならば、それも否と唱えてやろう。
1人と1匹は静かに火花を散らす。だが、彼女は紛う方ない己が妻。たかが愛玩動物相手になぜ妬心など湧くものか。4本足の動物と視線を絡めたまま、ふんと文若が鼻を鳴らした。
「勝手なことをしてすみませんでした。……あの、もう帰りますね。お仕事、がんばってください」
頭を下げて立ち去ろうとした彼女の腕の中で、ふと猫が一声鳴いて立ち上がる。そして謝罪さながらに花の頬をひと舐めし、くい、と顔を文若に向けた。きらりと眼が光ったのは、きっと陽光の加減の所為。
「あ、――ああっ!?」
花の懐から跳躍した猫が文若に飛び掛った、かのように見えた。しかし実際には、彼を飛び越しただけだった。
過ぎる刹那、長い尾でぴしりと一打、文若の顔を強かに打ち据えて。
「こ、こらぁっ! 文若さんに何てことするのーっ!」
華麗に地面へ着地した猫はそのまま疾風のように走り去った。彼女がどれだけ怒っても、言い聞かせても、文若や他者への成し様は治らない。
花は遠ざかっていく姿に声を荒げたが、こういうふうに文若へ何かをした折には、必ずといっていいほど姿をくらまして戻ってはこない。
そしてほとぼりが冷めただろう頃に、しおらしく鳴きながら花の機嫌を取りに帰ってくる。今回も恐らくはそうなるだろう。夜も遅く、彼女が不安をこころに滲ませる頃を見計らって。
軽く痛みの残る部分を掌で覆った文若は何も言わない。花は青くなって彼を見上げた。
「す、すみません、ごめんなさい! 悪さをしないようにいつも言っているんですけど……どうしていつも――ぶ、文若さん!?」
清涼な香りのする肩口に文若の頭が乗る。やり場のない花の手がそろりと彼の胸に当てられ、やや弾んだ吐息が彼の首筋に触れた。
「文、若さん? ……大丈夫、ですか……?」
「……何とかならんのか、あれは」
「私が飼い主としてなめられているからですよね、きっと……」
確かに別の意味で舐められてはいる。咄嗟にそう思ったがさすがに口には出さなかった。
肩をすぼめた花は文若の胸へ頭を落とす。そんな彼女を彼は黙って受け入れ、そろりと背に手を回した。
孟徳にもいつもの調子で打擲していたのかを問うと、彼女はこくりと小さく頷いて、遊びの一環なのかと思っていたと付け足す。触れようと手を伸ばす度に尾で打たれた孟徳は生意気だと笑っていたけれど、とても不仕付けだったのではないかと今さらながらに申し訳なさが募った。
気にするな、と文若は言って妻の背を撫でた。孟徳には憚られるが、花を守ったという点に関しては褒めてやってもいいのだが。
「寵も度が過ぎればつけあがる。……私のようにな」
「え?」
言葉の意を図りかねた花が首を動かしてすぐに唇が触れた。
何が起きたのかを刹那に理解できなかった彼女は、文若の口に笑みが刻まれているのを見て取ると一気に頭へ血が上った。無意識に文若の胸を押したが、それは背にあった彼の手で阻まれる。逆に強く引き戻された挙句、両腕で退路を絶たれた。
「ぶ、ぶ、文若、さん、――あの、ここ、廊下……です……」
「あれに目元を打たれて良く見えぬ。周囲に誰かいるか?」
「いえ……いないと思います、たぶん」
視界は塞がれているのでわかるはずがない。それは彼が一番わかっているだろうに。花はそれでも彼に寄り添って不要なことは言わなかった。この場を目撃されたら後々に文若へ面倒がかかるのに、恥ずかしさより嬉しさが勝ってしまう。
ごめんなさい、と胸中にこぼして花は彼の身に腕を回した。聞こえる早鐘は果たしてどちらのものであるのだろう。
「それでは致し方ない。……花。部屋まで手を引いてもらえるか?」
甘い戒めを解いたのち、はっきりと視線を合わせて文若は告げた。
「それから、邸へ帰っても暇であるなら、城に残って手伝ってくれると助かる。下官もいるが、尚も簡は山積みのままなのでな」
「……はい!」
満面の笑みを浮かべて力いっぱい頷いた花は、そろりと文若の手を取って回廊を歩きだした。
「美味いかい? 上等なやつを戴いたんだ。旦那様に感謝してお食べ」
「奥方様とお城へ上がったらしいが、何かお役に立ったのかねぇ」
厨房の裏手において、猫が新鮮な魚を大いに頬張って上機嫌で喉を鳴らしている頃、常より早い時刻の帰宅が叶った文若は久々に花と向かい合って夕食をとっていた。
同時刻に独りで過ごすことが多かった彼女は、夫に呆れられるほど食事中にも笑みを絶やさず、また箸を動かさずに次から次へと話しかけるものだから、遂には小言を繰り出されてしまう。食後に軽い説教を受けている間にも笑顔でいるので、仕舞いには文若が匙を投げた。
解放された居室で肩を並べて座し、昇りゆく三日月を仰いだ文若がふと苦笑を漏らす。
「お前も逞しくなった」
「そ、れはちょっと複雑です……ね」
「褒めているのだ。以前はそれとわかるほど落ち込み、すぐに泣いた。……ああ、泣くのは今も変わらんが」
彼の静かな笑みの向かう先には、月明かりに凛と浮かぶ花のような微笑みがあった。
「きっと文若さんのおかげです。私、今とっても幸せですから」
強さも弱さも分けあって、厳しく、やさしく互いを包み込める。今この世に在ることが出来るのは彼が、彼女がいるからこそ。
「そうか」
簡単に応えた文若は、袖を持ち上げて手を出した。左手の薬指にある指輪は、花の世界の習わしを聞いて贈った夫婦揃いのもの。幽かに輝くそれを重ねるように彼女の繊手を取って指を絡めた。
文若が床に手をついてわずかに身を屈めたら、目元をほのかに色づかせた花が身を乗り出す。
しかし、熱い吐息が触れ合うあとわずかというところで、花は突然きょろきょろと首を振って周囲に目を配った。
「花……」
「す、すみません! あの子が急に帰ってきて文若さんに何かするんじゃないかと思ったら」
「案ずるな。――今この刻は私を構え。そうでないと、私もあれに何をするかわからんぞ」
不穏な笑みを刻んだ文若が急いて花の手を引き、唇を重ねた。軽く啄んだあとに深く交わる。淡い光を受けた横顔が眩しく、いとおしい。
月下で二人はしばし睦まじく身を寄せ合い、何ものの邪魔が入らぬ静寂漂う中でぬくもりとこころを存分に交し合った。