胸焼けするほど文花が読みたいです。
特典の、孟徳軍編での文若に言葉もないほど萌え転がりました。冒頭のお茶の遣り取りから、風除け云々の遣り取りとかもうたまらんかったです。
もうさっさと花を嫁にしてしまえと、噴いた鼻水垂らしながらぼやいてました。アホもいいとこ。
拍手、ありがとうございました! 画面に向かって拝ませていただいてます。
しまった困った迷った。
いくつかの書簡を抱えて花は長く続く回廊の真ん中で立ち尽くした。
許都から遷って数日、住まいの片付けをする暇もなく政務の手伝いに奔走する日々が続いている。中央行政の滞りは各省にも反映され、市井の生活にも影響がでる。
彼を手伝えば負担が減らせるし、何より一緒にいられる時間が増える。それを考えれば休んでいる時間も惜しいし、上司の働き振りを鑑みれば個人の疲労など訴えることもおこがましい。未だ読み書きが覚束ず、注意を受けることが多いとしても。
しかし、だ。彼女は困惑を浮かべて周囲を見渡す。
覚えることは山とある。城内構造もそのひとつなのだが、それすらも追いついていないのが現状。
とにかく風景が似ていて、目印や目標物を見失うとたちまち迷子になってしまう。――今がまさにそうだった。
欄干や壁は同じ色、燭台や柱も造りが一緒。もはや回廊から見える景色すら同様の錯覚に陥る。そうして花は途方に暮れた。
早く戻らなければ執務が滞ると彼は怒るだろう。けして怒鳴ることはないが、眉間に深々と寄せられるしわとため息は結構堪える。限られた出来ることさえ出来ぬとあっては足手まとい以外のなにものでもない。
前方はもう少し歩けば突き当たり。だが、こうした道は通っていない。後方を振り返れば、やはり似たような景観でいずれに進んでも迷子が酷くなりそうだ。左は草木まで瓜二つな庭園ばかりで、右は同じ造りの窓と壁が連なっていて区別がまるで付けられない。
早く執務室へ帰らなければならない。新たに預かった書簡を届け、言いつけられた書簡の整理をしなければ進行に差し支えてしまう。彼の負担が増え、仕事が終わらなくなるだろう。
脳裏に浮かぶ厳しい表情。重々しいため息まですぐ近くで聞こえそうな気すらした。
立ち止まっていては何も始まらぬ。
それはこの世界に来てから繰り返し学んだこと。動かなければ何も変わらぬ。
不意に熱くなった目頭を袖口で軽く押さえてから、花が意を決して踵を返した、まさにそのとき。
「……このようなところで何をしている」
鋭い目つきで空を睨む上司の姿があった。
「いつまで経っても戻らぬから出て来てみれば」
「文若さん……!」
姿を見つけた途端、小言をこぼしだした文若めがけて彼女は駆け出す。書簡をしっかと腕に抱えたまま、怪訝な顔をしている彼に向かって突進し、勢いを削ぐことなく身体にぶつかった。息の詰まったような奇妙な声が頭上からぽろりと落ちる。
「は、な……!」
倒れずに花を受け止めて踏みとどまったものの、腹部を書簡で強かに打たれた衝撃はとてつもない。空咳を幾度か吐いてから、強引に懐へ収まった彼女を見下ろした。華奢な身体が小さく震えている。
「いったいどうしたというのだ」
肩をつかんで問う。彼女はゆっくり顔を上げ、うっすらと目に涙をたたえていた。ぎくりと強ばる文若。
「こ、こちらへ来い」
花の様子に動揺しつつ、文若は彼女の細い腕を引いて早足でその場を立ち去った。
手近な部屋に入って理由を聞いたあと、文若は指先を額に当ててため息をこぼした。先刻に思い浮かべたものと寸分も違わぬそれに花は肩を落とす。やはり呆れられてしまった。
ちらりと視線を上げてみれば、これまたやはり眉間には深い皺が寄っている。あれが彼の癖なのだと思っても、今回に限っては自分が原因なので精神的圧迫は受けざるを得ない。
「あちらへは幾度か行っているはずだが、何故迷ったりした」
「……ちょっと、考えごとをしていて、……目印を見落としてしまったみたいで……」
単純な失敗理由に、またもやため息が被さる。
「まったくもって迂闊だな」
「うう……」
さらに彼女の肩ががくりと落ちた。情けなさと恥ずかしさで向ける顔もない。
小さな嘆息。けれど次の瞬間には、普段は長い袖に隠されている文若の手が花のほおに触れた。少し冷たい指先に思わず頭をもたげる。
「気づけなかった私も悪い、とは思う。だが、わからぬのなら聞けばいいだろう。黙っているままでは助けてやることも教えてやることも出来ん」
「文若さん……」
「お前が不慣れなことに努力していることも、誤りをすぐ改められることも私は知っている。だから、私の負担になるなどと考えずとも良い。手に負えぬことがあったらすぐ話せ。いいな?」
「はい」
未だ瞳を潤ませたままだったが、彼女はまさに名の如き笑みを浮かべて頷いた。素直なところは彼女の美徳のひとつ。文若は花の様子に満足したように表情を薄くほころばせ、小さく頷いてみせた。
先行して扉を開いて部屋を出る。再び目に入れた景色はやはり何もかもが同じで戸惑うけれど、手の届くところに文若がいる。それがどれだけ心強いことか。――彼は知っているだろうか?
そんなことを考えながら一歩を踏み出した。迷いなく進むその姿は頼もしいばかりだが、歩幅も歩調もまるで違うので、城内では先行く背を眺めるばかりだ。
せめて隣に。
そう思った花は、追いかけるために書簡を抱え直す。気持ちを入れ替え、駆け出そうとして目標を見定めた、その刹那。
文若は立ち止まって振り返る。そしてきょろきょろと首を振って辺りを伺ってからわざとらしい咳払いをし、それからわざわざ袖を持ち上げて手を差し伸べた。
「また迷われたら適わんからな」
表情や口調こそ常と変わらぬ平淡なものだが、目元だけが違っている。よく目をこらさなければわからぬ朱。ふとした折りに見せる彼の優しさは、彼女への想いの現れだ。
ぱたぱたと軽快な足音を鳴らして近づいた彼女は、恐る恐ると文若の手を取る。刀剣を振るい、力を奮う武から縁遠い手は、しかし確かにこの身とこことを守ってくれる。
ためらいがちに握ってからほのかに頬を染めて微笑むと、文若もやわらかく笑みを返してくれた。
そうして二人は足並みを揃え、人気のない回廊を歩きだした。