以前に雑記で言っていた夢で見た文花の小話です。
夢の内容は、ほんの1シーンだけだったんですけど(しかも音声がなかったっていう……)、そこに前後を足して方向を整えてみました。
書きかけのものが終わるか、現実逃避が始まったら頂戴したリクエストにとりかかります。
んもー、どうやって料理しようかしら! おらワクワクしてきたぞ。
出仕は子が出来るまで、という約束をしていた。
人妻となった女人が表だって仕官していること自体があり得ぬことで、彼女は特異であったのだ。そもそも、孟徳の下に来た経緯からして特殊だったのだけれど。
奇妙な縁合を得、彼女は文若の部下として執務を補佐し、不可思議な縁を得て、今やかけがいのない生涯の伴侶となった。
文若は回廊を歩きつつ、己の傍らを歩く娘をちらと見た。彼女は視線を自らの腹に落としつつ、転ばぬように裾を摘んで静かに歩を進めている。
人生、何が起こるかわからぬものだ。
そう思いながら文若もまた彼女のゆったりとした歩調に合わせて孟徳の待つ部屋へ向かった。
「本当に残念だ。めでたいことなんだけど残念でならないな。個人的にはとっても色んな意味で君がいなくなってしまうことを至極残念に思うよ」
「あ、ありがとうございます。……で、いいんでしょうか?」
「勝手を覚えた使えるものが減るわけだからな」
肩を落とし、机上に伏した孟徳の前で、花は文若の言葉にはにかんだ。
右も左もわからぬところからのスタートで、怒られたり注意されてばかりだった頃を思い返せば、文若の発言は花にとってこの上ない誉め言葉だ。
無表情の文若を見、にこにこする花を見やった孟徳は面白くなさそうに口を尖らせる。
「花ちゃんを連れてきたのは俺なのに、ちゃっかり浚っていきやがって。目が細い奴はこれだから油断ならない」
「……」
「あ、あの、孟徳さん? これは私も納得して約束したことですから」
花は幼子のように駄々をこねる孟徳の機嫌を宥めにかかるが、手は膨らみの目立たない腹をやさしく撫で続けている。無意識の行動なのだろうか。
女っ気のまったくなかった部下に妻が出来、子まで授かったということはとても喜ばしいことなのだが、彼女がここに身を落ち着けた経緯が経緯であるだけにちっとも面白くない。
官位を辞して母となれば彼女は二度と宮廷に登らなくなってしまうだろう。もし本人が希望しても、文若がそれを厳しく制するはずだ。
孟徳は常と変わらぬ平坦な表情の文若を睨み、笑みに困惑を載せた花を伺い、繊手の置かれた腹に目をやる。
「その児は男の子かな。女の子かな?」
「気が早いですよ、孟徳さん。まだまだわかりません」
「男児なら文若に似て目が細くなりそうだし、女児なら花ちゃんに似てすっごく可愛くなるだろうね。……うん、楽しみだなぁ!」
肘を突いた掌に顎を乗せ、どこか夢見がちにそうのたまった孟徳を凝視する文若の眉間が瞬時に深まった。
「そうですか? 女の子はむしろ、男親に似るって聞いたことがありますけど」
誰から聞いたんだっけ?
人差し指をこめかみに当て、眺めるともなしに天井を仰ぎつぶやいた花の隣と前方では、とんでもない形相になった文若と孟徳がわずかに顔を見合わせた。それから瞬く間も惜しむように花を振り返って同時に口を開いた。
「ちょっと花ちゃん、それ本当!?」
「は、花。それは真か」
「え? ……い、いえ、私も聞いたことがあるだけで、確率とか統計とか、数字上の根拠や裏付けを知っているわけじゃないので……すみません」
驚いて身を捩ったが、肩を落として申し訳なさそうにする花に対し、2人の男は盛大な安堵の息を吐き出した。
思わず立ち上がった孟徳がどっかりと勢いよく腰を降ろすと、今度はため息をついた。
「あー、良かった。花ちゃんの娘が文若に似るだなんてそんな恐ろしいことになったら大変だ」
「花の娘は私の娘でもありますので不思議がることではございませんが」
「ねぇ、花ちゃん。もしお腹の子が女の子だったらさ、俺のお嫁さん候補に考えてくれる?」
さらりと文若の言を流した孟徳が、花に向かってさらりと途方もないことを告げた。
あまりのことに一瞬、花は呆気に取られたものの、内容を把握したとたんに母親より先んじて父親が憤慨に身を乗り出した。
「何ということを仰せになるのですか!」
「だって花ちゃんはお前が連れていっちゃうじゃないか」
「娘と花は別です! それに、丞相にはもう」
「……私は生まれる前からそういうことを決めたくないです」
男か女かわからぬと先刻話したばかりだのに、文若はおろか花すらもそれを忘れて大真面目に孟徳の申し入れを考えた。すでに数人の美女を囲っていることすら頭にないようだ。
端から却下する欠片もない妻を猛烈な勢いで振り返った文若に、花は彼の袖をそっと摘んで微笑みかけた。
「親だからって、この子の相手を産まれる前から決めつけてしまうのは嫌ですけど、どんな身分のひとでも、歳が離れていても、好きになっちゃったら止められません。……そうでしょう?」
世界をすら越えて文若に嫁いだ自身がそうであるように、想いをそれとこころに自覚したならば、確かに踏み止まれはしまい。
花が仄かに頬を染め、穏やかな笑みをたたえて文若を見上げると、彼は目元と耳をゆるやかに赤くしていった。
半眼でそれを眺めていた孟徳などそっちのけで、2人は無言で見つめあい、しばしここへ至るまでの道のりとこころの軌跡を思い返して胸を熱くした。
まあ考えておいてよ――。
話を蒸し返した孟徳の前面で、文若が顔をしかめた。どうあっても諦められず、母親が駄目ならその娘をと望むこのひとの節操の無さは如何なものなのか。ため息をこぼす文若の隣では、花が困ったように眉尻を下げていた。
「俺のこと好きになってもらえるように売り込むからさ。ね?」
「……丞相はさほどに我が娘をお望みですか」
「花ちゃんの娘を、だ。きっと俺好みの美人にきまってる」
「左様でございますか」
「……文若さん?」
夫を見上げた花が首を傾げ、孟徳も肘を付いたまま平静になった対面の男に訝った。
幾ばくかの沈黙が横たわったのち、2人の視線を浴びていた文若が机上に手を伸ばした。失礼しますと言ってから書き損じた紙と墨の付いた筆を取り上げ、器用に宙で張った用紙に流麗な文字を記す。
そして筆を置いたあと、向きを変えた紙を両手で孟徳に差し出し、彼が受け取るとすぐに花の肩を抱いて踵を返した。
「行くぞ」
「え? ――えっ?」
「私も今日1日暇を戴いている。邸へ帰るのだ」
「ちょ、ちょっと、文若さん?!」
花は強引に背を押しだした文若を見上げてから、せわしなく背後の孟徳を振り返った。
「あ、あの、孟徳さん、今までお世話になりました! 私たち、幸せになりますから!」
「児が産まれたら一緒に遊びにおいで。君ならいつでも歓迎するよ」
文若の陰に隠れてしまった花へ、孟徳はにこやかに笑って手を振った。そして、
「文若」
主君の短い呼び止めに、花だけを部屋の外へ押し出してから文若が半身を転じた。受け取った紙をひらりと舞わせる孟徳の目の光りは楽しげだが、完全にその色に染まっているわけではない。
袖口を合わせて居住まいを正した文若は、立ち上がった孟徳へ普段のように頭を垂れた。
「娘の名にと考えていたものです。――そちらを丞相へ献上いたしましょう」
花の肩を抱いたまま、文若は足早に回廊を突き進んだ。すれ違う官吏や侍女などが、堅物の尚書令が丞相府で、奥方とはいえ女性の身体に手を回している事態に目をむいているのを見るが、咎めるでもなく、また睨むでもなく、とにかく去るべしと歩みを止めることはなかった。
「文、若さん。すみません、ちょっと速い、です」
「……あ、ああ、すまない」
呼吸を短くした花は文若を見上げてにこりと笑い、少しだけ彼に身を預ける。
「孟徳さん、大笑いしてましたよ?」
「気にする必要はない」
「それに、もう名前を考えてくれていたなんて、びっくりしちゃいました」
「早すぎるということはないだろう。名は一生使うものだ。良きものを与えてやらねばならんからな」
「産まれるまで男の子か女の子かわからないのに?」
首を傾げるついでに文若の顔を窺うと、彼は視線を明後日に向けてから、わざとらしくこほんと咳を打つ。
二通り考えておけばいいだけのことだとつぶやいた文若の耳は、ほんのりと赤くなっていた。
「女の子だったら、さっきの名前を付けるんですか?」
「あれは――いかん。既に丞相へ差し上げたものだ」
「……名前だけ、なのに?」
「実際に望まれては敵わんだろう。あれで我慢していただく」
そう言った文若は花の肩を軽く叩き、やはり彼女の身体を支えたままで今度はゆっくりと歩き出した。彼の衣をつまんで並び歩く花は、表情を消してしまった文若を見上げ、次いで自分の腹を眺める。
まだ宿ったばかりなのに。これは男児であれ女児であれ、産まれてからもひと悶着ありそうだ。
――でも、みんなやさしいひとたちだから、心配しなくていいからね。
花は微笑んでゆったりとした衣の上から腹を軽く撫で、授かったばかりの生命にこそりと語りかけた。
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実際には、にこにこ笑ったお腹の大きい花から渡された書簡を、文若が丞相の前でざっと広げていたっていう部分だけを見たのです。しかもその竹簡、「娘」っていう1文字だけがデカデカと書かれていたという……。