姜維参入は夷陵後のことですが、まあ細かいことは気にしない方向で。
いいじゃないか夢を見ても……。
おかげさまで順調にお題が遅れております。
孔明が出仕しなくなって半月が過ぎた。登城せぬ理由を病と聞いている。だが玄徳以下近しい官は見舞にも行かぬ。一度それを問うてみたのだが、来るなと言われたから、と言った。行っても会うことは叶わぬ、と。
彼にはそれが納得できなかった。
「――伯約」
回廊を歩いていたら、背後から玄徳に呼び止められた。慌てて振り返り、拱手でもって礼を取る。
「また孔明のところへ行くのか」
「孔明様の下には非力な侍童一人しかおりません。万一のことがあったら悔やむに悔やみきれません」
わずかに非難の色を込めてそう告げると、彼を見下ろしている玄徳はそれに気づきながらも微笑んでいた。
「そうか。……では、お前の気が済むまで通ってみるといい。もし面会が叶ったならよろしく伝えてくれ」
そう告げた玄徳は、伯約の肩をぽんぽんと軽く叩いて去ってしまう。彼はその背を恨みがましい視線で見送ってから、小走りで城を出て行った。
いつもどおり邸へ赴くも門前払いだった。見慣れた顔に侍童も呆れた様子で「ご主人様はお逢いになられません」と同じ言葉を繰り返すだけで、手にしていた竹箒で門前の掃除に取り掛かって二度と客人を振り返ることはなかった。
足を引きずるようにして城へ戻るまでにため息をいくつこぼしてきたかはわからない。宛がわれた部屋の前までようやっとの思いでたどり着くと、今度は子龍と芙蓉にでくわした。正軍師をして「後継者に考えてもいいかも?」と言わしめた伯約だが、玄徳配下の中では新参者だ。まして二人は最古参の将軍。伯約は扉に触れていた手を離して拱手する。
「また孔明殿の邸へ行ったって聞いたけど、あなたも懲りないわね」
「芙蓉殿……」
伯約の表情が強張るのを見た子龍は小さく芙蓉を窘める。
「お言葉ですが、たとえお会いできずとも、いざというときの安否は疾く知ることができます」
「安否、ねえ」
「孔明殿ほどの方が理由もなく玄徳様のお側を離れるとは思えません。何かお考えあってこそのことだと思われます」
逆に邪魔になってしまうのでは、と言外に含めて子龍が伯約をも窘めると、歳若いこともあるのだろうか、彼はむっと不満の表情をあらわにした。
「……私は孔明様のことが心配なのです。重い病を得ていたらどうなさるおつもりなのですか!」
最後には怒鳴り、そうして伯約は部屋に入ってしまった。呆気に取られた二人は盛大な音を立てて閉じられた扉を眺めた。
しばらくしてから芙蓉は頬に手を当ててため息をつく。
「病? ……あの孔明殿が? ありえないでしょう」
「……芙蓉殿。さすがに言葉が過ぎるのでは」
「あら、本当のことじゃない。――それに、本当に病で臥せているのなら、玄徳様だって黙って放っておくはずがないでしょう?」
「それは、確かに……」
「まったく、頭の回転はいいのに、揃いも揃って面倒なことよね。なんだってあんなのに熱を上げられるのかしら」
まるで部屋の奥へまで届くような芙蓉の大音声に、子龍は思わず額を押さえて苦々しい顔をした。肩を竦めて芙蓉は歩き出す。子龍はその場にため息を残してからあとを追った。
人との交わりを避けた賢人に唯一認められた弟子がいるという。以降、どのような高官から頼まれても頷くことはなかったらしい。かく言う伯約も断られた一人だ。
弟子はとらない主義だから、という理由なのだが、それではその弟子はどうなのだと問えば、孔明は笑うだけで何も答えてはくれなかった。
噂の人物は現在、孔明の推挙によって同盟強化の使者として江東へ渡っている。近々戻るという連絡が今朝方玄徳の元へ届けられ、彼を大いに喜ばせた。
朝議終了後、主だった将はその場に残って玄徳を中心に簡単な打ち合わせをした。彼らが帰り次第、対曹軍の軍議を執り行うことが君主の口から告げられる。
そこで伯約が孔明を呼ばぬのかと問いかけたら、皆に呆れられたり笑われたりした。
「ほんっとにあなたは孔明殿のことになると目の色が変わるわね。いっそ感心するわ」
「それだけ軍師殿のことを尊敬しているのでしょう。良いことではないですか」
賑やかな声が響く中で伯約の顔が羞恥に染まる。唇を噛み締める彼の傍らで玄徳が諸将の態度を戒め、そのまま場の解散を宣告すると、伯約は礼もそこそこに風を切って広間を去った。
――なぜ正軍師をあれほど軽んじるのか。あれほどの人物に敬慕の念を抱いてなぜ笑われなければならない。
不可解な気分に苛立ちも募る。伯約は荒々しい足取りで部屋に向かった。
その日は執務が立て込んだおかげで篭もりきりになり、有りがたいことに雑念を追い払って集中することが出来た。
数日後、様々な報告や指示を仰ぐために玄徳の部屋を訪ねていたとき、使者が帰ってきたという報が舞い込んだ。
彼らを労うため、玄徳に従って出迎えに赴こうと部屋を出たところ、羽扇をひらひらとさせて回廊を歩いていた孔明を見つけた。彼らの視線に気づいた孔明は不敵な笑みを浮かべる玄徳の前まで来ると、手を合わせて深々と腰を折る。長らく、と孔明が詫び口上を述べだすが、玄徳はそれを止めさせた。
「お前が出てきたということは、……始まるか」
「成果次第でしょうが、まず間違いはないかと存じます」
扇の白羽がひらりと孔明の口元を覆う。そして玄徳と視線を交えてのち、彼は後方の伯約をちらと見た。
「毎日ご苦労だったね。しかし人の言うことは聞きなさい。ボクは来るなと言ったよ」
「伯約はお前を心配していたんだぞ?」
「その懸念が無用だからこそ、殿へもそう申し上げたはずです」
「俺やお前が黙っていても、芙蓉か文偉あたりが言ってしまうだろうに」
「……元より、承知しておりますとも」
楽しげな玄徳の目線の先で、孔明は渋面を作って羽扇の影でため息をついた。このような孔明は珍しい。伯約がそんな彼を凝視していたら背を向けてしまった。
使者を労う宴席を用意させているとして玄徳を促し、道を譲る。二人だけですべて事足りるような様子に羨望の眼差しを向け、伯約は遠くなっていく背中を追いかけた。
内殿ではすでに使者たちが文官と話をしている。そこへ玄徳たちが入室すると、小柄なひとりが会話を中断させて駆け寄ってきた。
「ご苦労だったな。無事で何よりだ」
長旅の間に被ったのだろう埃まみれの頭を、玄徳は何のためらいもなく撫でた。乱れた髪がさらにかき乱されて結った意味がなくなるほどだ。
「……殿」
「これくらい良いだろう。――ささやかだがお前たちの労いの席を設けた。そこで土産話を聞かせてくれ」
それだけ言って玄徳はその場から離れた。先ほどの文官たちに声をかけ、任に当たっていた他のものたちにも話しかけている。
残された孔明は目前の人物に苦笑し、頬にかかった髪を指で払った。
「長旅ご苦労様。しかし、すごい出で立ちだね」
「……そんなにひどいですか? 早く帰ったほうがいいと思ったので、無理をお願いして予定を詰めてきたんですけど」
「その辺は雲長殿もわかっているだろうから心配には及ばないよ。それより、顔を洗って支度を整えておいで」
伯約が見たことのないやさしい笑顔が向かった先は、名も知らぬちっぽけな煤けた童子。その童子が孔明に頭を下げて広間を小走りで去る。それを眺めるしかなかった伯約の胸にかっと熱いものが湧き、頭に血が上った。
「――孔明様!」
「君に言われることは何もない」
先刻とは打って変わった冷たい視線に当てられて立ちすくむ。踵を返し、玄徳の下へ向かう孔明の姿に伯約は泣きたくなった。
「芙蓉殿と子龍殿、孝直殿はこのまま同席を。馬将軍や黄将軍にもお越し願うとして、文偉殿は、士元を引っ張りだしてきてください。――伯約、君はボクと一緒に来な」
羽扇を翻して指示を終えると、孔明は伯約を振り返らず、皆と一緒に出ていってしまう。
取り残された彼は、唇を強く噛みしめながら荒々しく部屋をあとにした。
玄徳のいる上座近くに、使者の任を負ったものたちの席が設けられた。孔明の左隣もひとつ空いており、右隣には伯約が座している。むくれている伯約を横目に、孔明はあからさまなため息をこぼした。
「殿の御座す間でそういう顔をするんじゃないよ」
「この顔は元々です」
酒の振る舞いが始まっている中、二人は小声でそんなやりとりをしていた。酒瓶を持って侍女が来たときにはにこやかに杯を傾け、その気配は感じさせなかったけれど。
伯約は一杯目を呷り、すぐさま空にした。
遅いな、と玄徳のこぼした一言で機嫌がまた悪くなった。
(孔明様や玄徳様を待たせるとは何様のつもりだ!)
「女の支度には時間がかかるものですよ、玄徳様」
改めて注がれた酒を瞬く間に飲み干したが、芙蓉の発言で膳へ戻るはずだった杯が手から落ち、高らかな音を立てて床に転がった。一同の視線が伯約に集中する。
「お、おん、な……?」
「……やだ、孔明殿に熱を上げすぎてついに頭がどうにかなっちゃったの?」
「芙蓉殿……」
席がざわめきだしても、伯約は驚愕を隠せず瞠目したまま床を凝視する。そんな彼に孔明が眉音を寄せて首を傾いだとき、玄徳が場の騒ぎを治めに乗り出した。
「伯約。ひとつ訊くが、孔明の弟子が女人であることは知っていたか」
「――……いいえ」
呆然とした応えに、玄徳がついに額を押さえた。
「孔明……」
「君さ、謀士の端くれならそれくらいの情報収集は独自でしておきなよ。こんなこといちいち言うはずないだろう」
ボクまで恥をかいた。羽扇で自らに風を起こしつつ孔明がぼやいた、そんな刹那に原因が息を弾ませて飛び込んできた。桃色の裳裾や袖がふわりと風に乗った花弁のように舞う。
「遅くなってすみません!」
「お帰りなさい。それからお疲れさま、花。玄徳様も孔明殿も、――そこの伯約殿もあなたのことを待っていたのだから、早くお行きなさいな」
「ただいま、芙蓉姫。……はくやく、さん?」
小首を傾げた花を芙蓉が笑い、上座では玄徳が何とも言えぬ渋い顔つきで彼女を手招いた。
「花。まずは任を無事果たしたことを労ってやりたいが、その前にお前から孔明を叱ってやってくれないか?」
「師、匠を怒るんですか? ……私が?」
「夫君を窘めるのは妻たるお前の役目だろう」
「つ――つまぁっ!?」
立ち上がって叫んだ伯約に花が身体を震わせて驚き、面白くなさそうに孔明が目を眇めて玄徳と伯約を睨む。
「花、こちらは姜伯約。君が江東へ行っている間に恭順した天水の将だ。――伯約、彼女は花。ボクの唯一の弟子で、たったひとりの奥さんだよ」
「は、初めまして、花といいます。よろしくお願いします」
「はい、これでこの話はもうおしまい。さあ花、君が江東で得てきた土産話を皆様にしてさしあげなさい。ボクも玄徳様も心待ちにしていたんだから」
花を隣席へ座らせ、孔明は彼女が語る内容を一言一句聞き逃すまいと耳を傾けた。酒は口をぬらす程度。笑みは浮かべているものの、彼女の陰で玄徳や諸官を眺め渡す視線は冷静なもので、彼らはそこから孔明の言わんとするところを読みとっている。
ただし伯約は、様々なことが一気に脳内へ流れてきていたので混乱を来し、席上での内容を留めておくことができなかった。
後々に伯約は玄徳をはじめ、多くの官に慰められることになった。慰めをかけられたところで今までのことをなかったことにはできないのだが。
「孔明様は、花殿を良人となさりたいから弟子にしたのですか」
「ずいぶんな侮辱だね。彼女がそれと望んでくれるまで、ボクはそんなこと考えたこともなかったんだけど」
「も、……申し訳ありません。ですが」
「男だろうが女だろうが関係ない。いいものはいいと認める。だからボクは君を認めた。それじゃいけない?」
「いけません。どうして彼女を弟子に迎え、私を弟子にしてくださらないのか、きちんと理由をお教えください」
熱心な申し出を適当にかわしてきたツケなのか、伯約は毎日のように登庁する孔明を迎えに行き、その道すがら同じことを声高に問いかけてくる。そんな伯約のことだが、花は孔明の補佐を務めてくれる人物と認識して歓迎している節がある。彼女が不在の半月の間にサボったツケが回ってきたのかもしれない。とんだ八方塞がりだ。孔明は羽扇の陰でため息を盛大にこぼして空を仰いだ。
「何ものにも代え難い存在が、君にはある?」
「は……?」
「それがボクには彼女だった。そういうことだ」
呆気に取られた伯約を置いて孔明は歩き出す。刹那に我に返った彼は慌てて後を追った。
「それは単に孔明様が贔屓しているとしか思えません!」
「馬鹿なことを。あの娘は確かに奥さんで弟子だけど、ボクの師匠でもある。師匠が弟子にとって特別なのは当前だろう? 贔屓でもなんでもない」
「は? 弟子が師匠、ですか?」
「それに、――彼女がこの世界を選んでくれた対価を、ボクは一生をかけて払わなければならないからね。他に弟子なんて取ってる暇はないんだよ」
孔明は目を細めて笑う。穏やかそうであっても、深くにある強い不穏な光の欠片を見つけた伯約は思わず喉を大きく鳴らした。
彼は再びその場に立ち尽くし、敬愛する孔明がのらりくらりとでも歩いてまったく後ろを振り返らぬ姿を、愕然として眺めやることしか出来なかった。