丞相は、どんなに格好良いことをしても三国一のマダオの地位が揺るがない人だと思います個人的に。個人的にそう思っている。大事なことだから二度言わせて。個人的に。三度も言った。
惇兄は、魏ルートだと楽しいひとになってしまいますが、格好良いひとなのですよね。
……格好良いひとだよ、恋戦記でも! 面白い人になってるけど!
文字数制限ってあるのかな。重さかな。
メモに開くのを拒まれるって今までなかったんだけどな……
文若の遣いを果たして回廊を歩いていると、向かいから歩いてきた官吏の一人が壁際に身体を退かし、通りを空けて頭を垂れた。
突然のことに花はきょとんとして首を傾げ、首を振って周囲を見渡した。彼らがそうするのは、自身より高位の者がそこを使用するからだ。それは以前に文若から教わったことだった。
ぐるりと身体も回して似たような景色を眺め渡してみるが、やはり誰の姿も確認することはできない。彼女は思いきってその官吏に問いかけた。
「あの、他には誰もいませんよ?」
「は、よもやこのようなところで夫人にお目に掛かるとは思いませんでした」
答えになっていない。花は眉根を寄せて再び首を傾げた。
「え、と、ここにいるのは私だけなんですけど……」
「どうか! どうかこれ以上は……!」
官吏に倣うように上体を折って顔を近づけたら、余計に顔を伏せて悲鳴のような声を上げられてしまった。
こっちこそ、これ以上わけがわからなくなったら途方に暮れそうだ。花は仕方がないとばかりに、失礼します、と言って彼の前を去ることにした。
頭を左右に振り、先刻の問題を考えつつ回廊を進む。直線が長いので、柱や壁にぶつかる心配はしなくて済んだ。
彼の言葉自体が飲み込めない。夫人とは誰を指し、お目に掛かるとはどういうことなのか、まったく理解不能だった。花はその場に立ち止まって腕を組む。そして、突如脳裏に閃いた内容にぱんと手を打った。
下働きに命令できる身分であっても、上司がいたら逆の立場になる。
たぶん、そういうことなんだ。花は知れず笑みを浮かべた。
曹孟徳に近しい位置にある文若の手伝いをしているので、もしかしたらそれなりの官位を、彼らのどちらかが花の気づかないところで定めたのかも知れない。あるいは、文若の執務室でたまたま姿を見かけたので、文若の身分に対しての敬意を払ってくれたのかもしれない。
――そうだよ、きっと。
憶測であれ、謎を解すきっかけが見つかったことに満足した花は、再び回廊を進みだした。
直線的な造りの多い景観を視線の端に流し、彼女は文若の執務室へ向かっていた。官吏たちはそれぞれの部屋で執務に励んでいるのか、城内の人影がとても少なく感じられる。
戻る道順を反芻しつつ、目印にした燭台を数えていたら、また向かい側から人がやってきた。あ、と思ったのもつかの間、彼もまた素早く路を空ける。壁に沿い、大きな袖口を合わせて頭を下げたのだ。
花は条件反射のように髪を乱して周囲を見渡した。先ほどと同じでやはり誰の姿も見受けられなかった。
お辞儀をしている官吏を見て、花はぽんと手を打った。これはきっと謎を解明するチャンスだ。そう思った花が男性の前で身を屈めようとした瞬間、
「花ちゃん!」
「――孟徳さん」
花の小声に官吏は大きく身体を震わせたのだが、残念ながら彼女の視界には入らない。
満面の笑みを浮かべた孟徳は、花を見つけるなり赤い衣の袖を勢いよく靡かせて両腕を広げた。背後の元譲がそっとため息をついたのは、孟徳だけが知るところだ。
今日は顔も見ていなかった孟徳と会えて嬉しい気持ちになったのは花も同じ。心のおもむくままに駆け出しそうになったが、ふと思い立ってゆっくりと、慎重な様子で一歩ずつ近づいた。
彼女の変化に気づいた孟徳が、笑みを浮かべたまま首を傾げた。伸ばせば届く距離まで来たというのに、花は彼を見ることなく視線を泳がせている。
彼女が次の行動に躊躇する理由を疾く理解した孟徳は、やはり笑顔のままで口を開いた。
「元譲」
顔と音がまるで一致しない。地を這うが如き不穏な声音に、元譲は素早く身を返して背中を向けた。この場のことには関知しません。広い背中が無言にそう訴えているようだ。
「あ、の、え、えと」
「花ちゃん」
強張る身を蕩けせる甘い声音に誘われるよう、花がふらりと懐に歩み寄る。待ちかねた彼女をようやくの思いで包み込むと、去る機を逸した官吏が、とても居た堪れない空気を漂わせて顔色を伺っていた。孟徳は刹那に表情をなくし、無粋な彼に顎をしゃくって辞去を促す。
慌しくも密かに官吏がいなくなると、安堵の息をこぼしてやっと会えたとつぶやいた。
「そうですね。……ええと、こんにちは、孟徳さん」
「うん、こんにちは。どこへ何しに行ってたの?」
「文若さんのお遣いで、書簡を届けに行ってました」
「そう。あいつは人使いが荒いから、疲れちゃったらすぐ俺に言うんだよ?」
見上げた瞬間に視線が交わる。やわらかい感情を映した双眸に、花は大丈夫ですと笑ってみせた。
「ところで、これからの予定は?」
「文若さんのところへ戻って、お手伝いか、勉強です」
「それじゃ、俺と一緒に庭でお茶にしよう。珍しいお菓子もあるんだ」
相変わらず脈絡がない。何をどうしたらそういう話になるのか。胸中で首を傾ぐ花に、やはり孟徳はにこにことしたまま言葉を連ねた。
「仕事も勉強も頑張ってる君に、俺からのご褒美だよ。文若のところには元譲が手伝いに行くし、勉強なら俺だって教えてあげられる。だから、ね? いいでしょ?」
「そのお誘いは嬉しいんですけど、……孟徳さんもお仕事があるんじゃないんですか?」
「俺は大丈夫。花ちゃんとお茶を飲んだあとでも充分間に合うことばっかりだから」
「でも、元譲さんにもお仕事があるんじゃ……」
「こいつはいつだって暇だからまったくもって心配する必要はないよ。――なあ、元譲」
孟徳の軽い呼ばわりに元譲が振り返り、瞬間的に顔を引き攣らせた。少女を背後から抱きしめて脂下がっているのは、間違いなく主と仰いだ男。
「文若の手伝いがしたいって、言ってたもんな?」
反論を許さぬばかりの鋭利な視線に元譲の口元が震えだした。花の目がないからこその冷徹な表情は、しかし元譲にとっては呆れを覚えさせるものに他ならない。このまま言いなりになって見逃しては、文若の怒気の矛先が自身に向けられてしまう。
諫言も臣の勤め。そう腹を括った元譲が表情を引き締めると、花がためらいがちに声をかけた。
「……孟徳さんがいないと、困る人が沢山いるんですよね? 駄目だったら駄目って、はっきり言ってください。お茶は今じゃなくても飲めますし、孟徳さんのお仕事が終わるまで待ちますから」
しゅんとした花と、よりいっそう冷たさを増した孟徳を前に、元譲は折れざるを得ない心境に至ってしまった。がくりと頭を落として額を押さえる。
「…………………………陽が落ちる前には、戻れ」
手を繋ぐ二人の袖が、彩り豊かな蝶の羽の如くはためく。
二人のはしゃいだ声を聞きながら、元譲は文若への言い訳を必死になって考えた。
「そういえば、夫人って、どんな人のことをいうんですか?」
四阿へ向かう途中、花は歩きながら孟徳に問うた。
瞠目した彼は苦笑して、きっといつかわかるよ、とだけ言って握った手に力を込めた。
彼女の疑問が明らかにされるのがそう遠くない日のことであるように祈り、願いをこめながら。