い、いまのうちに本数増やしておけっていう天啓か。
ようし、がんばるぞー。(意気込みだけは立派……)
うららかな午後。師弟は執務室で政務に励んでいた。部屋主は広げた書簡に筆を走らせ、弟子は離れた小さな卓と棚の往復に忙しない。片付けが苦手なのか、はたまた面倒なのか、この部屋は少し目を離すと散らかりたい放題で、それを整えるのが弟子の仕事のようになってしまっている。玄徳に軍師として士官するようになったものの、以前のように献策することは少なくなった。天下に名を轟かせる伏龍がいるのだから、まったく差し支えはないのだけれど。
「ごめーん、ちょっといいかな」
「はい、何でしょう」
「あのね、これなんだけどさ。君だったらどうする?」
このようにして、孔明は彼女を政に関わらせる。いささか方向違いの意見を修正しながら、より良き方策を彼女から引き出すためだ。足りないのは知識と経験。孔明はそれを知っている。
問題を提示した彼は、考えこんで黙る彼女を見上げて微笑む。異なる世界の異なる思考はある意味とても貴重だ。戦を知らぬ時代に生きていた彼女の考えが向かう先は、誰もが平等に、平穏無事に明日を迎えることが出来るような世を目指すものだと、彼は誰よりも先んじて知っていたのだから。
「……というのは、どうでしょう?」
「何でそんなに自信ないかなぁ。いいこと言ってるんだから、もっと堂々とすればいいのに」
「師匠はどうすればいいかわかってるんだから、いちいち私に聞かなくてもいいじゃないですか」
「弟子だからって、雑用だけで済むと思ってるの? これも勉強だよ、勉強」
唇をとがらせる彼女を前に笑い、筆に墨を付けて竹簡へ流麗に滑らせた。彼女の意見に少し肉付けをして上奏内容を書き記す。これは明日の朝議へ提出されるものだが、きっと文句なしに通るだろう。
筆を置いてから背伸びをする。そして脇に積まれた竹簡の山にため息をつきたくなった。処理を済ませた案件も多いが、未だ手つかずのものも同じくらい残されている。やらなければならぬことばかりだが、人を殺めることばかり考えなければならなかったほんの少し前のことを思えば苦にもならぬ。
中を覗いて届ける先を確認する。持てるだけ手にして立ち上がった孔明は、棚に向かっていた彼女の背に退出する旨を告げた。
「ちょっと出てくるから、帰ってくるまで休憩してていいよ」
「わかりました。いってらっしゃい」
「はい、いってきます」
無意識だろう言葉に思わず顔がほころんでしまう。
綢繆でも口ずさんでしまいたくなるが、さすがにやめておいたほうが無難だろう。
部屋から持ち出した量と同等の書簡を抱えて戻った。何かと忙しい日々だが充足感はある。問題は山積みで消化する端から新たな問題が起こるけれど、国という生き物は人間如きが簡単に制御出来るものではないのだから当然だろう。
「ただいまー」
身体で扉を押し開いて足で閉める。弟子に見咎められたら文句を言われるに決まっているけれど、彼女とのやりとりならそれすらも楽しい。彼女がこちらに残ることを決めたあのときから、どうにも浮かれ気味で、ここまで単純だったのかと自分自身に笑いたくなる。
新たな書簡を机上に転がし、返答のないことに首を傾げる。てっきりこの室内で休憩をしているものとばかり思っていたのだが予想が外れたか。
書簡や冊子の散らばっている卓上には茶器があった。触れてみるとすっかり冷めてしまっている。器は二人分。しかし使用された形跡はない。改めて視界を傾げたその先で、ほんのわずかに行方を失っていた彼女がいた。陽の当たる長椅子で冊子を片手に眠っている。
「師匠の帰りも待てないなんて、困った弟子だねぇ」
顎を摘み、うっすらと唇を開いている寝姿に笑う。まるで子供のようだ。
孔明は部屋の奥から薄い上掛けと枕を持ってくる。端に枕を置き、彼女の身体をそっと横たえた。これだけ触れても起きぬのだから本格的に寝入ってしまっているようだ。そんな彼女に苦笑して、冊子を取り上げて上掛けを巻き付けた。
普段、充分に睡眠が取れていないのかもしれない。読み書きのままならない彼女へ課題は出しているけれど、じっくり、ゆっくり、この世界に馴染んでいけるようにと期限は設けなかった。
しかし、遅くまで明かりを灯している日が続いているようだ。努力は認めるが、無理を重ねて昼間の執務に差し支えるようでは本末転倒だろうに。
「……本当に困った娘だな」
頬にこぼれた髪の一房を撫でて密やかに笑った。
「孔明」
その時、表に玄徳の声が聞こえた。
孔明は素早く立ち上がると衝立で扉と長椅子の間を遮る。これで彼女の姿は見えない。
そして早足で扉へ向かう。
「わが君御自らのお運びとは、如何なさいました?」
「いや、そんな大層なことじゃない。通りがかったついでだ」
身を引いて入室を促すも、玄徳は手振りでそれを制した。
室内を軽く見渡してから孔明を見る。
「花はいるか?」
「今は遣いに出しております。戻るまでに時間がかかるかと」
「そうか。――そろそろ彼女にも朝議に参加してもらいたいんだが、お前は師としてどう考える?」
孔明の上奏案には、彼女の意見が反映されていることが多分にある。それを見越してのことなのだろう。
玄徳の問いかけに、孔明は目を眇めて顎をさすった。
現在のように他人を挟むより、直接に彼女の口から上奏されて採用されれば更なる功となり、彼女の自信にも繋がるだろうけれど。
「まだ表へ出すに忍びない未熟者へのご配慮、恐れ多く存じます」
「お前からすれば俺すら未熟者だろうに、花へはよりいっそう手厳しいな」
「それはもう、私の弟子、ですから」
目を細めて笑う軍師に、玄徳は軽く目を瞠ったのち苦笑した。二人が恋仲にあることを知っているだけに、触れられぬところがあるのかもしれない。なかなかに複雑なようだ。
「加減はしてやれよ」
朗らかに笑いながら孔明の肩を叩き、玄徳はその場を辞した。その背を見えなくなるまで送ってから部屋の扉を閉ざす。衝立の向こうの彼女は未だ目覚めておらぬ。
穏やかな寝顔。何ひとつとして、彼女は昔と変わっていない。
「……わが君とていずれわかりましょう」
いずことも知れぬところから転がり落ちてきた、世界を変える掌中の珠。その特別さは、いずれ伏龍などと呼び称されてきたこの身を遙かに凌駕するだろう。
けれど、それまでは、せめて。
まろみを帯びた頬をそっとさすり、そこへやさしく唇を降とす。稚い寝顔に微笑んでから、孔明は残る政務を片付けるべく衝立の向こうに姿を消した。
今はまだ誰の目にも留まらぬよう、この手の内のみで眠れる小さな蕾であれ。
そして君の望みが叶う来るべき日に、彩り鮮やかに咲う大輪の華となれ。