元花アンソロどなたかよろしくお願いします。全力で他力本願。
すでに2,3本くらい更新した気でいたんですけどそれが妄想だったといま気づきました。
こびとさんは存在していなかったのね……。
湿り気を帯びた風の通る回廊を歩いていると、前方からふわふわとした歩き方をして近づいてくる妙才がいた。目の前までやってくると、常のように朗らかな笑みを浮かべた彼は、そっと花に対して腰を折る。
「どうも、こんにちは、花殿」
「こんにちは、妙才さん。何かあったんですか?」
花の問いかけに、妙才は笑顔のまま首を傾げる。
「なにゆえそうお思いで?」
「いつもより、ちょっと楽しそうだなあと思いました」
花の返答に、妙才はますます笑みを深くした。――なかなかどうして。彼女の眼は世を平らかに眺めているように思えるも、やはり謀士であったか。
恐縮した様子の彼女に目を細める。清清しいまでに透った空を纏い、小花の咲き乱れる緑野に佇むがごとき出で立ちは、いったい誰の見立てであることか。
「ご指摘通り楽しいこともありましたがね。こうして意図せず花殿にお会いできたことも気持ちが揚がった一因かと」
「……妙才さんって、ときどき孟徳さんみたいですよね」
「えっ、主公!? それはい……いやいやいや、恐れ多いんで勘弁してくださいや」
眼前で両手を左右に振って花の言葉を軽やかな調子で拒否する。その態度に目を丸くするものの、冗談の体がありありとしているので思わず笑ってしまった。
「あーっと、そうだ。俺はこれからちょっと隠れるんで、もし誰かに所在を訊かれたら、知らないって言っておいてもらえませんかね?」
妙才の求めを、花は首を傾げつつも諒解した。すると彼はあっという間に、けれどもふわふわとした調子は変わらずに去っていった。見送った背が消えると、花はその場に残された愉快な空気にくすくすと笑いながら歩き出した。
しばらく歩を進めていると、遠方から短い悲鳴が聞こえてきた。あれは女性の声だろうか。ふと足を止めてその方角を探っていると、風を切るようにして回廊を驀進する元譲の姿を発見した。おそらく、あれが原因なのだろう。しばらくその様子を目で追っていると、そんな花に気づいたのか、怯えたように道を開ける侍女たちになど目もくれず、元譲はさらに勢いを強めてずんずんと花に向かってくる。城内で見たことのない鬼気迫る光景に、思わず花はごくりと喉を鳴らした。
しかしそれもほんの束の間のこと。
元譲が目の前までやってくると、花は彼を見上げながら腹に力を込めた。ぐっと下唇を噛み、崩れかけた口元を慌てて上衣の袖で覆い隠す。
「おい、妙才を見なかったか」
口を開くと危険なことになりそうなので、花は無言で首を左右に振った。元譲は彼女の態度を訝るでもなく、肉厚の唇を歪めて顎を摘まんだ。
――所用有、という妙才の書置きを己の執務室で見つけたのは、仮眠から覚めたあとだった。どこにいるのかも示さぬとはとんだ粗忽者だと思いつつ、内殿、客殿、兵舎、練兵場などを訪ね回った。兵はみな常と変わりなかった。けれど、問い訊ねると常ならぬ異様さで顔をこわばらせていた。
ふ、と。元譲は目の前に佇む俯き加減の少女に目を落とす。隻眼に映るのは旋毛と揺れるやわらかそうな髪ばかりだが、不可思議な態度は今まで見てきた兵らとまるで同じように感じられた。
「おい」
「あの、元譲、さん。――鏡を、見た方が、いいと思います」
「……鏡は好かん。それに、女ではないのだから、その必要は」
「いえ、み、見た方がいいです。池とか、桶とか、樽でもいいですから」
自分で顔を見てみた方がいいです。
正面から完全に顔を背けた娘の震えた小さな声は、けれども目前の偉丈夫の耳に確りと届いた。
元譲は目を眇めるも、そのまま身を転じて近くの井戸へ向かう。乱暴に汲みあげたゆえに大きく波打つ水面に現れた自身の顔は、背後に輝く陽光を以てしても照らしきれぬほど真っ黒になっていた。
「こっ、……これはいったいどういうことだ……!」
元譲は無言で顔を洗い続けていた。派手に飛沫をあげ、知らぬ間に墨で塗りたくられた真っ黒い顔面を元に戻していく。濁った水が足元の石畳に降り、乾いた地に跳ねる。元譲の乱暴な仕草は、あっという間にいくつもの水たまりを作っていった。この悪質な悪戯は、きっと、というより確実に妙才の仕業だろう。
「元譲さん。手拭いを借りてきたので使ってください」
「すまん」
真黒くなっていた口周りも、額の夏の一文字も消えていたことに何故だか妙な安心感を覚えた。怒りでぎらぎらとした眼光に怯みつつ、花は伸びた元譲の手にまっさらな手拭いを渡す。両手で広げたそれで豪快に濡れた部分をふき取ると、ようやく人心地がついたような気がした。
元譲の機嫌の悪さを感じた花は、そういえばと、妙才の言っていたことを思い出す。逃亡工作はこれが原因だったのかと気づいたなら、ひと息にうしろめたさがこころを占めた。いまこの場で行方を尋ねられたなら、うっかりしゃべってしまうかもしれない。――そうでないなら、口を閉ざしていればいいだけのこと。問われていないのだから言う必要はないのである。
どうか何も訊かないでほしい。けして責任逃れをするわけではないけれどと、勝手な言い訳をこころの中で唱えながら極限まで緊張が高まっていく中、手拭いを首に掛けた元譲の目が身体を強張らせている花に向かう。
「おい」
「あっ! ま、まだ汚れが残ってます!」
「ん? そうか?」
「元譲さんはそのまま動かないでください」
「お、おい!」
ひらりと上掛けの裾を翻して元譲の視線から逃れた花は、懐から取り出した刺繍のある手巾の一端を桶にある澄んだ水で湿らせる。そしてふわりと裾に風をはらませて向き直ると、慌てる元譲など意に介するふうでもなく手を伸ばしてきた。彼女の突飛な行動にぎくりとして不自然に身体が突っ張る。
つ、と、花の指先が軽く薄く鎧を外している胸部に触れた。衣越しにもそれは弱くてはかない。もう一方の手巾を持った手は顎の下に入り、汚れているのだろう部分をやんわりと撫でている。触れなくてはならぬ状況下に陥ったがゆえに致し方なくという場面、――ではないこの事態。何も考えられなくなった元譲は真っ白になった己の頭の中に、鳴るか否かの微かすぎる音を立てて小さな蕾がぽんと開いたのを見た気がした。
「取れました。――あ、痛くなかったですか? 強くこすっちゃったような気が」
「い、いや、……その、すまんな、いろいろ」
一歩の距離を置いた花が元譲を仰ぎ見る。けれど、元譲は顔をふく振りをし、手拭いを広げて顔を覆い隠した。異様に熱くなった顔面を彼女には見せたくなかった。
かろうじて出した右目でこぢんまりとした彼女を見下ろす。機宜を得たように見上げていた花と視線がかちりと合えば、元譲はゆっくりと逸らし、花はそんな彼を見やって笑い出した。
ばつの悪い元譲は、くぐもった声でまたもやすまんと言った。
「元譲さん、謝ってばっかりです」
「む……、そ、そうか?」
「はい。――そうやってすまんって言われるより、ありがとうって言ってもらえるほうがずっと良いです」
微笑をたたえながら言う花に、元譲は大きく見開いた隻眼で見下ろした。
「あっ、こ、これはですね! 前に私も同じようなことをしたときに文姫さんがそう言ってくれたんです! その、つまりは、文姫さんの受け売りっていうことで私の考えじゃないんですけれども! ――…………生意気を言ってすみません……でした……」
花は言い訳のために振り回していた腕を胸元に収め、羞恥に火が出そうなほど赤く熱くなった顔を俯かせたうえ両手で覆い隠した。恥ずかしいことこの上ない。穴があったら入りたいとはまさにこのこと。
この場から姿を消してしまいたいけれど、足は震えてうまく動いてくれそうにない。目の前の元譲はとても静かで、この沈黙を崩すようなことをしてくれてはいないことが窺える。
どうしたらよいのだろう。手の下の両の眼を固く瞑って思い悩んでいると、そうか、と、頭上から短いつぶやきがこぼれた。元譲の小さな声に、そろそろと頭を持ち上げた花は、顔面を覆ったままの手の隙間から彼の変化を観察した。
「なるほど、一理ある。――そうだな、確かにそれが筋だろう」
「え」
「あのまま孟徳の下へ行っていたら只事ではすまなかったからな。助かった。――ありがとう」
孟徳に暑苦しいと揶揄される相好がやんわりと崩れる。指の空隙からそれを目にした花は、まるで逆上せたようにぼうっとして何も反応できなかった。
またもや訪れた沈黙に、今度は元譲が落ち着きをなくす。すでに人手を借りねばならぬ事態は過ぎたのだから行けと、ここから去ってよいと言うのはまた何か違う気がして、元譲は脇に垂れていた手を意味もなく開閉させて精神の均衡をなんとか保とうとしていた。同時にあちこちへ視線をやるが、こんな時に限って誰もこない。ここまで人の気配がないと故意ではないかと勘繰りたくなった。
そして遂には、この空気をうまく解消させる手段を求めて、ぐるりと頭を巡らせて井戸の周りを眺めやった。いっそこの状態を感知した孟徳が乱入してくれぬものかと、焦燥によって思考を巡らせることを放棄した脳がそんなことを思い立ったその瞬間、彼女の背後にある低木に、いままさに開花せんとしているひとつの蕾を見つけた。何を思ってそれを目に留めたのかは自身にも理解できなかった。
花が彫像のようになっているのを脇目にしながら無言のうちにそれの元へ向かい、無意識のうちに手折る。膨らみきった蕾を彩る紫は、今は数えるのが面倒になるほど幾重もある花弁の先端を強く色づかせているけれど、開ききれば全体を淡く染めるのだ。
なるほど――まるでこの娘のようではないか。
「花。――おい、花」
「は、はいっ」
ようやく顔の覆いをといた花が緊張しながら振り返る。と、元譲は手折ったそれを彼女に差し出した。
「礼になるようなものを持ち合わせておらん。すまんが、今はこれで容赦してくれ。後日改めて」
「いえ! お礼なんていいです、これで充分です!」
「しかし」
躊躇する元譲にゆっくりと首を振った少女は、厳つい手から瑞瑞しい礼を受け取る。自らの胸に引き寄せてのち、じっくりそれを見つめた。
「これが、いいです」
元譲は掌中の花に微笑む彼女を見下ろしながら、ゆめうつつに、そうかと言った。
たわやかな彼女の声音が耳に入ると、身体中がかっかとする。まるで熱を持った言葉が全身を巡ったかのようだ。慌てて元譲は身を転じて背を向ける。
「……ここの片づけは俺がしておこう。手拭いの始末だけ頼む」
「はい、わかりました」
元譲から渡された汚れた手拭いを簡単にたたみ、花はちょこりと頭を下げてくるりと背を向けた。
小走りで階を上がって進みかけたが、ふと足を止めて欄干をつかむ。意識せずとも緩んでしまう頬をうっすらと朱に染めて、井戸周りを几帳面に整頓している元譲の広い背中をしばらく眺めやった。