花を正室とするなら、歌妓さん以下他の女のひとたちはどうなってるんでしょうね。
奥さんたちからは離婚できないわけですし……なまなましい疑問……。
「……参りました」
居室の中央で、手にしかけていた碁石を離して花は項垂れた。
「うーん、実に惜しい」
盤を挟んだ向かいの孟徳は、微苦笑を浮かべて口先を少しだけ尖らせた花を覗いた。遊戯とはいえ口惜しいと見える。孟徳はつぶやきの先を教えるように、指先で碁石を滑らせた。
「こうすれば、どうだろうね」
「あ!」
「まあ、こうなっても、――こうしてこうなってこうすれば、俺の勝ちになっちゃうけど」
「う、……うーん……」
涼やかな衣擦れの音を立て、花は杏色の袖口から出した手で顎をつまんだ。眉間に皺を寄せ、眼下の碁盤を唸って睨みつける。孟徳はその様子を、肘掛に身を預けながら見守った。
薄く笑みを刷いた唇を茶で濡らし、険しい表情の花をじっと眺める。
淡い橙の袖を膝上で重ねて淑やかにしていても、碁盤を凝視する雰囲気は、今時分の季節に相応しくない。常に見る穏やかさは、ちょうどこの秋口や春のような感じで、彼女の愛らしさがいっそう際立つ。だからとちって目の前の刺刺しい空気を纏っているときは可愛くない、というわけでもない。
――要するに、何をしていても魅力的に見えるのだ。
孟徳にしてみれば、どうということはないのである。彼女の形相の変化がどうあろうが抱く想いに変わりはないのだから。
可愛くて可愛くてしかたがない。
長い袖を絡ませるように腕を組み、前かがみになって考え込む花の姿を、孟徳は満面の笑みで見つめていた。
「もう1回、いいですか?」
孟徳の機嫌を窺うようにして、上目遣いで花はささやく。彼はそれに無言で応え、肘掛から身体を起こして碁石を盤からさらった。石を分けて花の手元の箱に戻すと、彼女は微笑んで礼を言った。
「さあ花ちゃん、どうぞ」
「はい、頑張ります!」
両の手を握りしめた花は、さっそく碁石をひとつ摘まんだ。持ち方からして素人のそれだが、孟徳はにこにこと笑んだままだった。
髪を上げたことで露わになっている白い喉元を見、結い上げ、整えられた後頭部に見え隠れする簪を眺めやる。まだ長さが半端なので、結うにしても見栄えが足りぬ。なので、なるべく大ぶりな飾りのものを挿しているが、少し見劣りしているふうであり、本人も好みではないらしい。
もともと派手で華美なものを遠慮する。そこがまた愛らしく、眉尻を下げた彼女の困惑する様にも胸が高鳴る。面白がって贈っているのではと指摘するのは文若だ。趣向はともかく、花に贈るものは私財で入手するのだから、それに関しては文句を言われる筋合いはない。
ぺちりと小さな音を立てて、花が石を置く。始まったばかりなのだから考えるまでもないと、孟徳が間を開けず石を置けば、花はまた石を指先で摘まんで碁盤を見据えた。
薄く紅を引いた唇が尖る。おそらく彼女も自分では気づいていまい。盤上を見つめながら薄く眉根を寄せた花は、不意に空いているほうの手を挙げて髪の生え際に触れた。視線を動かさず、わずかに頭を傾ぐ。無意識の仕草から生まれる艶めかしさに思わず孟徳の喉が鳴った。
何処とも知れぬ世界からやってきたこの娘は原石だ。磨けば如何様にも輝く。長考する花を、孟徳は目を細めて眺めた。
あの不可思議な本が手元になくとも、うまく導けば一廉の謀士となろう。拙くはあるが、政への意見も興味深いものがある。文若と政策を論ずることができるのだから、文官として確立させることだって不可能ではないが、その道はとりたくなかった。
肌触りの良い衣を纏わせ、煌びやかな装身具で飾り立てたなら、妙齢の娘となる。いろいろと幼すぎるが、歳を経ればふるいつきたくなる美人となるだろう。そうなるために今から磨き上げるのも悪くない。もっとも、今のままでも充分、孟徳にとっては魅力的に映るのだけれど。
おそるおそる石を置き、花はちらと目線を上げて正面の孟徳を窺う。それを受け、ゆるく口角を上げた孟徳はすぐ次の手を打った。
花は目を瞑って再び考え込む。その姿を孟徳は目を細めて見守った。
臥龍の弟子は、今はこの手中にある。それも別段、虜囚としてあるわけではない。
彼女は孟徳のもとにこころを定めてくれた。恋だの愛だのといった表現が生温いほどの感情で、花はここに残ることを、この身の傍らにあることを決めたのだ。
孟徳ははじめて彼女と唇を重ねたことを思い出しながら、うっそりと石を握りしめた。
花を一人前の女人として美しく花開かせることは、迷い子であった彼女を保護した益州の玄徳にも、江南の青二才、仲謀にもできまい。
この手にあってこそ。
孟徳は碁石を載せた傷だらけの手を開いて眺めた。
「――徳さん。孟徳さん」
「ん? ああ、ごめん。俺の番かな?」
「はい」
孟徳を映しだすやわらかな瞳が笑んでいる。その笑顔に感化されでもしたかのように笑み返した孟徳は、手のひらの碁石を指先に滑らせ、碁盤に視線をやった。
普段どおりに勝負して彼女の拗ねた顔を眺めやるも一興だが、それとなく手を抜いて彼女に価値を譲ってみるのも面白いかもしれぬ。
さて、どうしようか。短く息をついた孟徳は、けれども即座に頭を横に傾げた。
「あれ?」
思わず孟徳は声を出す。置ける場所がない。
いや、あるにはあるのだが、――負ける。どこに打とうが、次の一手で勝敗が決してしまう。
緩んでいた表情を引き締めた孟徳が姿勢を前かがみにし、滅多に見せぬ真剣な顔つきで碁盤に目を凝らした。これは意識の散漫さが招いたことなのだろうか。文若を揶揄しながら打ったときにでさえこんな間抜けな手抜かりをしたことはないのに。
碁盤を睨んでいた孟徳は、目だけで花を仰ぎ見る。不可思議な視線を浴びた花は、先刻の孟徳の仕草を真似るように、頭をこてんと横に倒した。どこまでも無邪気だ。
しばしの間ののち、孟徳は上体を起こして両手を挙げた。
「参った。降参だ」
「え? それはどういう……」
「花ちゃんの勝ちってこと。文若につつかれるだろうから、これはあいつには内証にしてね」
「……まさか、私が勝つまで止めないだろうって思って手を抜いたんじゃ」
「それは花ちゃんに失礼でしょ。これは君が実力で掴んだ正当な勝利だ」
そう言ってみせたが、花は疑いを払拭しきれないらしい。孟徳はじっと双眸を睨みつける花の目を受け止める。目先の勝負に集中していなかったことは確かだが、うしろめたいことは何もない。打つ手を誤ったのはあくまでも己の責任であり、そこを無意識にでも衝いて勝利を引き寄せたのは彼女自身の力である。
花の厳しい視線に口の端を上げたままでいると、ややあってから彼女は緩やかに相好を崩していった。
「文若さんでもなかなか勝てないのに、素人の私が勝っちゃうなんて、何か不思議です」
「いやいや。なかなか、じゃないよ。あいつになんか負けない」
孟徳の物言いがおかしかったのか、花は小さな声を立てて笑った。これをまさしく鈴の音のようだと評して目を細めたらば、花は目元を赤くして俯いてしまった。仕草がいちいち初初しい。孟徳の笑みが深まった。
「さて、ご褒美は何がいいかな」
「ご褒美、ですか」
「功績を挙げたものには褒賞が必要だ。――わが麗しの姫君におかれては、何を御所望されるかな? 何でも言ってくれてかまわないよ」
盤を撫でて集めた石を色別に分けて片づけながら、孟徳はいつものように軽い調子で言った。花がそれを真正面から受け止めて顔を真っ赤にするのも常のこと。
こんな初心な態度がいとおしいと感じるほど、自分は彼女に参っている。そして、そんな滑稽な己を嘲笑しつつも悪くはないと思えるほど、こころが彼女への想いで満ちている。女人へ抱くには不思議な感覚だった。
しかし、それほどに彼女に惚れているのだというところへ意識が落ち着けば、何もかもが至極尤もだと治まるのだからこれも不思議なものである。
「何でもって言われても……」
にこにことしたままの孟徳の前で、花は困ったように眉尻を下げる。無意識にだろう、唇に指先を当てて視線を周囲へ漂わせた。
孟徳が何でもと言うと、本当に叶ってしまうだろうことが恐ろしい。嬉しくはあるのだが、以前、もとの世界にあった服飾などを話して聞かせたとき、関連する職人を総動員させて似せたものを寄越したことがあった。それも両手に持てぬほどの量を、だ。――制服を基本に置いたのだろう裾の短い衣や、奇抜な意匠の装身具が部屋中に広げられ、花は目を白黒させたが、孟徳は何処吹く風でいつものように満面の笑みを絶やさなかった。あまり余計なことを言うなと文若にきつく諌められたことは記憶にも新しい。
実際にそういった目にあってこそわかることがあると身に沁みた出来事だった。
境界線を越えてはならない。花は孟徳の笑顔を見つめながら、自身の裡で定めた一線を越えぬような願いを探した。
何もないと言っても引き下がらないだろう彼を納得させられるような望み。それは途方もない難題のような気がして、花は一瞬だけ眩暈を覚えた。
深い緑の匂いがだいぶん薄れた涼風だ。奔放に跳ねた髪が揺れることも心地よい。ふわりとやさしく肌を撫でて通る風に目を瞑り、孟徳は杯を口元に運ぶ。花の淹れた茶は、今まで侍女が用意してきたものとは違う風味に感じられた。同じ茶葉を使っているだろうに、欲目というのは際限がなくて困る。
未だ深刻そうに首を捻る花に対して苦笑がもれた。
「今すぐ考えつかないのなら、あとででもかまわないよ。焦らなくていい。時間はたっぷりあるからね」
「孟徳さん……」
片目をぱちりと閉じて告げれば、花はふわりと微笑を浮かべた。この笑みひとつとってしても胸の奥がくすぐられる。愛しい愛しいとこころが強く訴える。このこころのままにいますぐ抱擁して口づけたなら、今以上の気持ちを思えるのだろうか。そう考えるととたんに落ち着きがなくなった。杯を持った手が震える。
彼女と出逢ってから、過去に捨て去ったものが戻っていたり、新しいものがいつの間にかあったりと、驚きが絶え間なく訪れている。――きっとこれからも、自然の理で季節が巡るように、2人で過ごす時間の中で繰り返されていくのだろう。
凍てついた世界がやわらかな腕に包まれて、彩りあふれるあたたかな世になってゆく。
それがどれだけの幸福を齎してくれるのか。考えるだけでたまらない。
「あ――」
花がそろりと袖に隠れた手を胸の前で合わせた。
「何か思いついた?」
「お、思いついたというか、思い出したというか……」
重ねた橙を胸に当て、彼女はそっと孟徳から視線を逸らす。恥らったような横顔に、孟徳の口元が緩んだ。
「なになに、何でも言って。俺、花ちゃんの言うことだったら何でも聞いちゃう」
杯を手放した孟徳が、ぐいと前のめりになるあと、花はちらと目だけを孟徳に寄越し、次いで気まずそうにぎこちなく顔を向けた。
ああ、彼女は本当に意地悪だ。無意識にだろうが、男心をくすぐって意識を己ひとりに向けさせて、焦らす。
「花ちゃーん。意地悪しないでよー」
「あの、……本当に何でもいいんですか?」
「もちろん! ――衣? 簪? それとも一緒に街へ出る? でーと、っていうんだっけ? ああでもそれじゃ俺のご褒美にもなっちゃうなあ!」
俺は負けたのにと、ちっとも悪びれずに孟徳が言う。大輪の花を満開に咲かせたような孟徳の態度に、けれども花は逆に咲き終えて萎んでいくばかりのようだった。
その態度に疑問を打つよう、孟徳が首を盛大に傾げると、花は躊躇を振り切って唇を開いた。
「あの! あの、……お仕事、に、行って、……ください」
「……え?」
鮮やかな赤い袖が床に垂れ広がり、あとはもう倒れるだけだという角度まで孟徳の上体が傾ぐ。いくら味わっても飽き足りぬ愛らしい唇から発せられた非常に不可思議な言葉は、孟徳の笑みを凝固させた。
「よくぞ言った」
ぱん、と、居室に乾いた柏手が鳴り響くと同時に、孟徳の表情が強張った。振り返るのが怖い。
楽しげな半円を描いていた眉尻が、ゆっくりはっきり下がっていく。
「花、ちゃん」
「……休憩中、だったんですよね? 孟徳さん」
「まさしく。いつまでも戻られぬと思えばこの有様だ」
「まあ、単純で助かったがな」
精巧な彫像のように固まった孟徳の背後に、2人の偉丈夫がひたひたと歩み寄った。眼下にのそりと伸び、そして確実に光を遮っていく影が2つ。
「ぶ、文若さん。あの、私も忘れてしまっていたので、あんまり孟徳さんを怒らないで」
「信賞必罰。たとえ丞相であろうと、明らかにせねば世に示しがつかぬ」
「文若! ――元譲!」
「そこまでしなくても! 孟徳さんが怪我しちゃいます!」
「ああ、心配するな。この程度でどうにかなるほど、これもやわじゃない」
荒縄で孟徳の全身を蓑虫のごとく縛り付ける元譲の背後、ただ目の前の出来事を眺めるだけの文若は、顰め面で彼の言葉に首肯した。
結び目がきつく締ったことに満足した元譲が、手を叩いて埃を払う。
「よし、行くぞ」
「おいお前ら! こんなことをしていいと思ってるのか!」
「こんなことをされるようなことをしているお前が悪い。白湯一杯も落ち着いて飲めんわ」
「阿呆! 他の連中と俺とじゃ苦労が違うだろうが! ――花ちゃん! 花ちゃーん!」
紅い物体が床を引きずられて居室から連れ出されていく。それを見つめるしかない花は、手を組み合わせ、遅れて踵を返した文若の背中に縋った。
振り返った彼は、苛立ちが許容量の限界まできているらしい。鬼のような形相に、思わず花の背筋が凍った。
「他の夫人が相手では簡単に捕まらなかっただろう。お前で助かった」
「あ、あの、…………せめて、晩ご飯は、い、一緒、に……」
「丞相の働き次第だな」
言うまでもないと、冷たい口調でばっさり切り捨て、上衣の裾を華麗になびかせて文若が去っていく。
一縷の望みも絶たれた気分だ。
執務の運び具合は知る由もなく、孟徳の休憩を忘れていた自分も悪いのだが、きっと大いに拗ねていじけて戻ってくるだろう。慰めに失敗してこじれたら明日の出仕に響くことは想像に難くない。
戻ってきたら、思い切り甘やかしてねぎらおう。戻ってこられぬようなら執務室まで押しかけよう。そのとき文若に怒られるのは、もちろん自分ひとりだけであるようにしなければならない。
花は孟徳に供するための夕飯と夜食の献立を考えながら、侍女を呼ぶための鈴をならした。