と、子敬さんと陸遜と子瑜さん。
公瑾に嫁いだ場合、諸葛の虎さんは要らぬ苦労を負いそうな感じ。(※私が書くものに限る……)
瑾兄さんごめんなさい……
さらさらと薄い音を奏でて庭木を湿らせていく春雨に目をやることもなく、彼女は腿に乗る頭をやわらかく抑えながら耳かきに専念していた。
「さあ、終わりましたよ」
かすかに湿らせた手巾で耳の周りをふき取ったあと、そうやって声を掛けながら道具を傍らの小さな器に片づける。それを侍女に引き取らせてから、健やかな寝息を立ててしまっているひとの顔を覗きこんだ。すっかり寝入っている様子に苦笑し、彼の上衣を持ってくるよう、別の侍女に言いつける。2人きりになると、彼女は頬や瞼にかかった、短いけれどやわらかい質の髪を指先で弄び、稚く見える寝顔に微笑みかけた。
相次ぐ巡察、軍議に練兵と忙しなさに拍車がかかり、じっくり執務室に腰を落ち着けることがなかったせいもあるだろう。ようやく周囲と調整をして確保した貴重な休暇である。明日からはまた多忙な日常に戻らねばならぬのだから、何ものにも邪魔されず静養してほしい。
――けれど、相手にされないのも淋しいものがある。
うっすらと口を開けて心地よさそうに眠るひとを眼下にし、彼女は矛盾する気持ちに自嘲した。
薄手の紅緋の上衣を持って戻った侍女に、横たわった彼の上にかけるよう目配せをする。衣が手に触れるとむずかるように顔を顰めたので、侍女はひやりとして身を竦めたけれど、主が目を覚まさなかったので彼女と顔を合わせて密かに笑いあった。
「奥方様」
背後からささやくように呼ばれて振り返ると、侍人が籠を持ってやってきた。足音を忍ばせて2人に近づき、手拭のかかった籠を彼女に差し出す。
「先刻、呂将軍様がおいでになりまして、土産にと置いていかれました」
「子明殿が? それならばご挨拶を」
「いえ、すぐお帰りになられました。ご夫婦の邪魔になってはならぬと申されまして」
「今日の休暇は彼が勧めてくれたのです。きっとあなたも子敬殿から許しを得ていたことを知っていたのでしょう」
おや、と彼女が膝上に目をやると、彼は大きな欠伸をしてから肘をついて身体を起こした。開ききらぬ眼を瞼の上から揉み解し、数回ぱちくりと瞬きをしてから顔を上げる。
「起こしてしまいましたね。すみません」
「いえ、それは構わないんですけど。……とてもいい夢を見ていたのに」
彼はそう言うと、彼女に向かってゆっくり身体を倒した。やわらかい胸に顔を埋め、切ないため息をこぼす。彼女はその行為に目を瞠ったものの、淑やかな笑い声をこぼして彼の頭をやさしく抱いた。
「私はこんな大きな息子を持った覚えはありませんよ」
「こんなふうに出来るなら、あなたの子に生まれても良かったかな」
「あらあら。困ったひとだこと」
彼女が微笑みながらも彼を受け入れていると、それを見ていた侍女らにも穏やかな笑みが広がっていった。
「――なあんて夢を見たんですよねー」
後頭部に手を当てた伯言は、明け透けにそう言って笑った。
四阿の軒下で、昼下がりの憩いの時を楽しんでいた孔明と子敬は、そんな若い彼を見つめてから顔を見合わせ、半瞬ののちにからからと笑った。
しかし、公瑾は白湯を満たした碗を片手に硬直した。大きな音を立てて口に含んでいたものを嚥下したが、直後に咽てひとり苦しい思いをすることになる。
「私の女人の好みは、きっと孔明先生のような方なんだろうなあと思いましたよ。……ああ、こちらは先生に。いつもお世話になっているお礼です」
「伯言殿は相変わらずお上手ですこと。あらまあ、李じゃないですか。それもこんなにたくさん」
「夢に因んだ贈物かの」
「いえ、子明殿が持ってきたのは……確か、棗だったと思います」
「礼など、気にしなくてよろしいのに」
孔明が眉尻を下げて伯言を見上げれば、彼は朗らかに笑った。彼女が自分に対して費やしている時間を思えば、ひと籠の果物などでは対価にもならぬ。
「わかりました。あなたのお気持ちとともにありがたく頂戴します」
「……伯言」
おどろおどろしい声音に伯言が首を傾げる。咳のつづく口元を隠しながら歳若い書生を睨む公瑾を、伯言はいっそ爽やかな笑顔で振り返った。
「公瑾殿も食べます? また市へ行って買ってきましょうか」
「そうではないでしょう。何か私に申し述べることがあるのではないのですか?」
「ええ? うーん、都督にご報告するような案件は授かっていなかったと思いますが……」
けろりとしている伯言の態度に公瑾の目線はさらに鋭利になる。そして2人のやりとりが聞こえていないはずもないのだが、孔明と子敬は李の籠を挟んでものやわらかな空気を作っていた。
いくつかの李を子敬に分け与えて微笑んでいる孔明の横顔に、公瑾の怒りが頂点に達する。
機敏に袖を払ってすっくと立ち上がった公瑾が口を開く、まさにその瞬間を狙っていたかのように、孔明は迫力ある笑みを浮かべて怒気を纏った彼を見上げた。
「公瑾殿」
一音ずつを明確にした呼ばわりに、公瑾は袖で隠した影で口端を引き攣らせた。
仲謀を交えた会議は至極密度の濃い内容だった。若き主君の目覚ましい成長ぶりを、きっと文台と伯符も喜ばしい気持ちで見守っていることだろう。子瑜は未だ残る興奮を心地よく思いながら、爽やかな風を肌に受けて静かに頬笑んだ。
今までもそうであったが、これからはなお一層のこと尽くし、主を盛り立てていかねば――と袖の内で拳を握って期している子瑜が佇んでいた回廊の反対側に、喚きたてている伯言の耳を摘まんだ公瑾が無表情で現れる。涼しい顔で歩んでいく公瑾の斜め脇、伯言は思いつく限りの言い訳を並べているような感じも受けた。
「都督、痛いですって本当に痛いんですからー!」
「これくらいで済むことをありがたいと思いなさい」
「孔明先生は怒ってなかったじゃないですかー!」
子楡の存在に気づくことなく、対照的な2人が奥へと去っていく。姿が建物の陰に消えて見えなくなっても伯言の訴えはしばらく響いており、その内にも数回、孔明という言葉が耳に入った。
しばらく呆然としていた子楡は、我に返ると同時に小走りになってその場を後にした。
「――亮! 亮はいるか!」
「ふん?」
孔明の私室に飛び込んだ子楡は、中央の台座の上に目的の姿を見つけた。だが、当の人物は、頬を膨らませたまま口に李を当てて突然の来訪者に目を見開いている。闖入者の正体を知ると孔明は丸めていた背を伸ばして口を開こうとしたのだが、息を荒げた子楡は眉を吊り上げて止めさせた。
手巾で口周りと手を拭いて籠と李を脇へ除けたのち、居住まいを改めた孔明は正面の座を子瑜に勧める。場が落ち着くと手をついて頭を下げ、まずは謝罪から述べた。
「失礼いたしました。……して、子瑜殿にしては大変珍しく慌ただしいお姿でいらっしゃいましたが、仲謀殿から無理難題でも押し付けられましたか」
「そうではない」
暢気な妹の前で子楡は顰め面をし、先刻に見た光景を説明した。彼女はそれを聞いた途端、ああ、と短く声を発して頭を掻きながら明後日を向いてしまう。
「たかが夢の話に腹を立てるなど、莫迦莫迦しいと思いません?」
「亮っ」
「どうか、兄上様から義弟たる公瑾殿に言い聞かせてくださいませんか? 亮は、度量の狭い殿方は好みでないのだと」
「口を慎まぬか! たとえお前が望んでおらなんだ婚姻だとしても、嫁いだからには」
「誠心誠意お仕えしたくなるような殿方であればもっと違ったのですけれどもねぇ」
「り、りょおおお……っ!」
突っ伏した子瑜の頭上では、あっけらかんとした孔明が再び李を口にした。嘆く兄の姿には憐れみを覚えるものの、これ以上は話し合うのも無駄であると言わんばかりである。
扉の外では、茶の湯の用意をしてきた侍女が子瑜の叫びにおののき、道具ひと揃えを滑り落として嘆いていた。