無料配布のものです。誕生日ネタ。
新しいものをオトすまでまだ時間がかかりそうなので。
「おはようございます、公瑾さん」
「おはようございます」
執務室で交わす朝の挨拶が、彼らの一日の始まり。何ら変哲のないそれは、けれど2人にとってはとても大切なものだった。
公瑾が執務を開始すると、花は部屋の端に設えられた机で筆を取り、手本とまっさらな竹簡を広げた。
花が読み書きの出来ぬことは、彼女が公瑾の傍に身を置くようになってからすぐ知れるところとなり、それからは1日のほとんどを手習いに費やすこととなった。当初は執務の邪魔になるのではと花は不安を訴えたが、他に手の空いている官などなく、新たに師となる人物を探すにも当てがないと言われ、そこに時間を割くことこそ逆に迷惑になると諭されて現在に至る。のちに、よく遊びにくる終いから、それは単なる公瑾の嫉妬だと指摘され、嬉しくはあったが公私混同なのではと複雑な気分になったけれど。
彼の手伝いを度度申し出ているのだが、文字の壁を持ち出されて却下され、玄徳の下にいた折のことを告げたなら、ここは荊州ではないと、公瑾を機嫌をおおいに損ねて拒否された。
――なので、いったん入室したのちに花がこの部屋から出ることは滅多にない。機会といえば、時折、忙しい公瑾から頼まれて茶の支度を整えるために厨房へ行くときか、大喬、小喬に引っ張り出されて城下へ赴くくらいのものだった。
それはささやかなきっかけだった。
執務中に姉妹が乱入してくるのはさして珍しいことではない。そのときも彼女たちは普段のようにはしゃいだ足音を立ててやってきた。断る前に扉が開き、顔をしかめた公瑾などお構いなしに、一直線に花の元へと向かう。
「花ちゃん、遅くなったけどおめでとー!」
「これ、私たちからの贈物だよ!」
姉妹は賑わいながら小さな木箱を差し出した。思いがけないことに丸くした目を瞬かせた花は、首を傾げながらそれを受け取る。
「……何かありましたっけ?」
「えー? 自分の誕生日、忘れちゃったのー?」
「この前聞いたばっかりの私たちは憶えてたのにねー」
並び立ったまま顔を合わせて2人は笑いあう。思い出した本人は遅れてその笑いに混ざった。
「あ、ありがとうございます! わざわざプレゼントまで戴けるなんて嬉しいです。……開けてもいいですか?」
瓜二つの顔が同時に頷くのを見てから花は蓋を開いた。中身は淡い緑の小さな花があしらわれた一対の耳飾り。以前、城下で見かけて気になったのだが、少少値が張ったので購入を諦めたものだった。耳飾りと姉妹を見比べた花の目がすぐさま喜色に潤む。
店先でずっと見ていたからと、大喬。そして小喬は、いつもの礼も兼ねているのだから遠慮なく受け取ってほしい、と言う。そんな2人を前にして、花は再び会うことの叶わなくなった友人たちを思い出し、ついに一滴の涙をこぼした。
「話は終わりましたか」
そこへ水を差すように、公瑾の冷ややかな声が走った。手元の書簡へ落としていた無感動的な視線を3人に向ける。
花は慌てて目元を拭って木箱の蓋を閉じた。すっかり執務中であったことを忘れていたのでばつが悪い。肩を窄めて縮こまる花の前では。しかし姉妹は細めた眼で公瑾を見ては密やかに笑いあっていた。
「勉強の邪魔してごめんね」
花に対して謝罪を述べた姉妹は、彼女に背を向けた途端、公瑾へは意地悪く笑ってきたときと同じように賑賑しく出ていった。
部屋に静けさが戻ると、花は木箱を机の隅に追いやって筆を取った――が、しかし。
「私に何か言うことはありませんか? 花殿」
「は、はい! お仕事中に騒いですみませんでした!」
「そうではないでしょう。……誕生日とは初耳です。今日なのですか?」
「……たぶん」
公瑾の問いに、花は首を傾げて答えた。数字は合っているが、1800余年もの差がある元の世界と暦が合っているのかはっきりした自信がない。それも含めて説明すると、公瑾は握っていた筆を置き、眉根を寄せて嘆息した。
「なぜ言わなかったのです」
「え、えと……言わなかったというか、言えなかったというか、そのー……」
「彼女らには教えたのに、私にはその必要がなかったと言われますか」
「そ、ういう意味じゃなくて、ですね」
公瑾の表情は平静そのもの。感情が昂るほど冷静になろうとつとめる彼の癖のようなものであり、花には今そこに怒りが秘められているものだとわかっているので、何とも居た堪れない気分になった。
間違っても口には出せないけれど、ひねくれているところが少し師に似ている気がする。花がこそりとため息を落とすと、公瑾は片眉を跳ね上げた。
「あの姉妹よりも軽んじられているとは知りませんでした。……至極残念です」
「そんなことはありません! あの2人は大切な友達ですけど、公瑾さんはたったひとりの、こ、……恋人、なんですから、軽んじるなんてことしません」
花は目元をうっすらと赤くして語気強く言うと、恥じらいに視線を逸らしてから唇を尖らせた。稚くも愛らしい表情に、公瑾は思わず緩みそうになる口元を袖で隠し、あえて無表情を装って彼女に目線を据える。だからどうした、との無言の問いかけを感じた花は、やるせない吐息をこぼしてから席を立って公瑾の目の前にやってきた。
「ひとつ、お聞きしますけど。もし私の誕生日を知っていたら、公瑾さんはどうしましたか?」
意図の読めぬ設問だ。そしてなにゆえに辛そうな顔をするのか。相も変わらず不可思議な言動を取る。高貴な小首を傾いでから薄い唇を開いた。
「まあ、在り来りでしょうが、贈物をするとか、珍しい菓子を用意するとか、あなたに喜んでもらえるよう、鋭意努力をして言祝ぎましたでしょう」
「……だから、言いたくなかったんです」
「だから、と言われる意味がわかりませんが、それは訊ねたら教えていただける理由なのですか」
机上で手を組み、公瑾は細い視線を真っ直ぐにして彼女の瞳を見た。しばらく交えた目線は、耐えられなくなった花が先に逸らす。
公瑾にとって当然のことでも、花は違和感を覚える。戻ることの出来ぬ郷里とこちらの差異は、彼女が言わなければ公瑾にはわからない。
身じろぎもせずじっと待つ公瑾に、花は視線を泳がせ、上掛けの袖をいじっていたが、腹を決めて開口した。
「お祝いをしてもらえるのはもちろん嬉しいですけど、公瑾さんはすぐそうやって何か贈物をしようとするでしょう? それに見合ったお返しが出来ないと思ったので、その、言わなければ大丈夫かなーって思って、……言いませんでした……」
反応が怖い。花は上目遣いで相手の様子を窺った。
そして案の定、公瑾は刹那に顔を顰め、らしくもなく盛大なため息を吐き出した。
「……そんなくだらない理由で疎外されていたとは。まったくもって莫迦莫迦しい」
「私にはくだらなくなんてないです」
「それであなたは、菓子の一切れ、茶の一口でも貰おうものなら、その都度返礼しなければと悩むのですか?」
「そういうのとはレベルが違います。公瑾さんのプレゼントは高価すぎるんです!」
肌触りの良い絹の衣、絢爛な装飾品の数数は、今までの花にはまったく馴染みのないもので、公瑾から贈られるようになって肌身に着けるようになってからも慣れることはない。
困惑した顔での告白は不意打ちにも等しい。公瑾は呆気にとられるが、知らず口の端がゆるりと上がる。
女性に贈物をして困られるなど今まで思いもしなかった。けれども――そうだ、彼女はその辺の女とは違う。
出逢ったときと同じように、不意にこころ揺らぐ瞬間にも、きっと彼女だけはこのまま変わらず、確たる芯をもって添うてくれる気がする。
花を見つめながら笑んでいると、彼女は頬を膨らませて公瑾を睨み返した。
「……笑いごとじゃありませんっ。公瑾さんは身分があってお金持ちで一般庶民の感覚がわからないのかもしれませんけど、私は本当に困ってるんです!」
「そういう意味で笑っているのではありません。我が妻となるひとが慎ましやかで安堵したのですよ」
公瑾は文机から離れて花の前へ行く。台座より降りはしなかったが、膝を折って背筋を伸ばし、小さくて白い手を取って彼女を見上げた。
「しかしやはり、教えていただけなかったのは無念でなりません。祝うことすら許さぬとはあまりの仕打ち。こころを通わせ、あなたのような方と好い中となったことを私ひとりだけが喜んでいたのだと思うと恥じ入るばかりです」
「だ、だからそういうことじゃなくてですね! わかっててからかうのはやめてください!」
「では、己惚れても良いですか」
「……私なんてとっくです」
まるで化粧を施したように紅を頬に刷き、照れて視線を逸らした花が言う。歓び満ちた顔でそんな彼女を見上げていた公瑾は、さするように撫ぜた繊手に唇を寄せた。触れるほのかな熱。
「案件が詰まっているので遅くなるやも知れませんが、ぜひ今宵、時間を割いていただきたい。私にもあなたを祝う機会を与えてください」
穏やかに細められた視線で言われると、花ははにかんでゆっくり頷いた。
文机に積まれた書簡がなくなるのは星が瞬く頃になるだろうが、それから邸へ帰っても充分に時間はある。
明日は待ちに待った久方振りの休暇だ。夜遅くなろうが、朝寝坊しようが、誰にも咎められることはないだろう。
思ったより早く目覚めた。はっきりしない意識のまま身を起こし、未だに開くことをためらうように落ちてくる瞼をこする。そうしている間にも口元が緩んでしまって大変だった。
昨夜はとても楽しかった。思い返すだけでも胸が温かくなり、頬が赤みを帯びてくる。
いったいいつ手配したのか、私邸の食卓には花の好みがふんだんに反映され、月をも溶かすような琵琶の音色と透った歌声、そしてここぞとばかりに歯が根こそぎ浮いてどこかへ行ってしまいそうな言葉を並び立て、胸やけしそうなほどに甘やかしてくる公瑾を独占した。
2人きりの宴は夜半にまで及び、公瑾も仕事で疲れているだろうので程程の頃合いでお開きにしようと言っても、自分が満足するまではと押し通された。いったい誰を祝っているのかわからなくなるくらい屁理屈を並べ立てられ、今さら口で勝てる相手ではないと瞬時に諦めた花は、彼が飽きるまではと了承した次第である。
これまで経験のないこと尽くしで恥ずかしいことのこの上なかったが、まるで夢のような時間を過ごしたと思う。昨晩を振り返った花は寝台の上で紅潮した頬を両手で挟み、へらりへらりと独りで笑っていた。
そこへ侍女がやってくる。思い出し笑いで崩れきった顔つきを急いで改めて入室を許可した。促されて身支度を整え、導かれるままに寝所を出る。太陽は既に高く、朝というには遅すぎる時間だった。
食事などの用意もあるだろうに、迷惑をかけてしまっただろうか。花はそう思いながら先導する侍女の背を見たが、彼女は何も言わずに淑やかな足取りで回廊を進む。そうしているうちにたどり着いたのは、公瑾の私室の前だった。
「花様をお連れいたしました」
「どうぞ。お入りなさい」
「はい、失礼します」
花は訳が分からぬまま侍女によって開かれた扉をくぐり、障屏から顔だけを覗かせてすぐ、室内の様相に絶句した。
個人の部屋としてはけして狭くなかった場所へ、所狭しと広がっている鮮やかな数数の反物。色合いや刺繍の統一性はないようだが、一見にも触れることを躊躇したくなるほど質が良く、高価なものだとわかる。華美すぎず、豪奢すぎず、公瑾の趣味の良さも知れよう。
背を向けていた朝衣姿の公瑾は、月白色の1本を広げて見知らぬ男性と向かい合っていた。戸惑いの気配を察して振り返った彼はいつものように微笑んでいる。
「おはようございます。よく休めましたか?」
「あ、はい。あの、おはよう、ございます。……これは、何をしているんですか?」
「こちらへいらっしゃい。……ああやはり、涼しげでいいですね」
些か挙動不審になっている花の肩に紗を掛けて細い目をよりいっそう細める。満足げに眺める公瑾を、花は混乱の眼差しで見返した。
「こ、公瑾さん、あの」
「そろそろ暑くなってきますし、新しい衣を誂えるには良い頃合いかと思いまして。何もせずに放っておいて、彼女たちとまた妙なことを謀られても困りますから」
「もうしません! そうじゃなくて、これって、――もしかして」
訝る彼女の視線を、公瑾は揺るがぬ微笑みで受け止める。花はそれをもって自身の考えが正しいことと諒解せざるを得なかった。
「……公瑾さん!」
「呼び立てがあったので私はこれから出仕しなくてはなりません。休暇をいただいていたので今日1日、昨夜のようにあなたと過ごせると思っていたのですが」
「誤魔化さないでください! 昨日、私が言ったこと忘れてませんか!?」
「これは別に誕生祝ではありませんよ。先にも言ったとおり、時節的なことと、あなたの無謀を戒めるためです。……まあ、自己満足の一環とも言えますが」
「……はい?」
花が怒りを忘れた一瞬、公瑾は薄い笑みを刻んで腰を曲げた。触れるか否かの際どさで頬をかすめた唇が耳元に寄る。
「あなたを美しく飾り立てるのは、私の義務であり、私だけの特権でしょう?」
艶やかなささやきで全身に鳥肌が立った。
耳や首筋にまで熱を伝染しながらも震えた身体を自ら抱きしめる花に、公瑾は目を細めて微笑んだ。
「細事は彼女に言いつけてありますので、あなたは好きなようにお選びなさい。――それでは、私は行って参ります。なるべく早く帰りますから」
「え、ちょ、ちょっと待ってください! こんな状況、どうしろっていうんですか!」
「さあさ、奥方様。本日お持ちしましたのはどれも公瑾様がお褒めくださいました極製にございます。いずれを仕立てるにしても、きっと奥方様にお似合いでございましょう」
「違います! 私はまだ公瑾さんの奥さんじゃありません! ――――公瑾さぁん!」
「花様。如何様にもお選びいただかねば彼らも御前を辞すること叶いませぬ。……どうぞお諦めくださいませ」
公瑾の、花への執心ぶりを知る侍女は、早早に諌めることを放棄してしまったようだ。弱り切った花から発せられる救助の徴に、これまた弱弱しく首を振ってどうにもならぬことを示す。
前には朗らかな笑みで反物を構える商人、後ろには為す術なしと諸手を挙げてしまった侍女。言葉巧みに拒否も説得もできぬ花は軽く握った拳をぷるぷると震わせる。
「こ、公瑾さんのばかーっ!」
そうして発した花の精いっぱいの叫びは、常に物静かな邸を震撼させた。