……という安直な方向です。対都督。いはおり。
公花で書こうかなって思ったんですけど、考えれば考えるほどありがち(都督が残念)なオチにしかならないのでやめました。いえ、花孔明でも大差ないんですけど。どっちにしたってひどいという。
むかしから痛い愛情が多いねと言われます。……言われます……。
犬と都督と花孔明。もう1本くらい書きたいです。反省の色がない。笑
床に入ったのは空が白んでからだ。積もり積もった案件を邸に持ち帰ってまで執り行い、何とか朝議で奏上できる形に整えられたのが、つい先頃のこと。
文机の側の灯りが空しくなるほど視界が自然に明瞭となった頃合いに、冷たい寝台へ横になった。蓄積していたのだろう肉体的な疲れが一気に押し寄せてきたのか、その刻限ならまだ寝ているだろう孔明の姿を覚えていない。探そうにも横になったとたん襲ってきた眠気に抵抗する間もなく、諸手を挙げて迎え入れてしまったのだから。
「……殿。――公瑾殿」
身体を強く揺さぶられ、閉ざされていた意識をこじ開けてすぐ流し込まれた怒声に、公瑾は顰めた顔を隠すように毛布を持ち上げて頭を覆った。紗で出来上がった薄闇に寄せた眉根はわずかに緩んだものの、それは瞬く間に瓦解する。
毛布を引っ剥がされ、今度は耳元で大音声が立った。
「公瑾殿!」
「……あとにしてください。私はまだ眠い」
「話ならすぐ終わりますから」
奪い返した毛布を身体に巻き付けなおした公瑾を、孔明は睨みおろして再び身体を揺すった。眠気の直中にいる彼は、先刻床についたばかりだとつぶやき、起きあがる気はなさそうだ。
穏やかな寝息をたて始めたことに、孔明はむっとして唇をとがらせる。そして、腕の中に抱えていたものを寝台の上に放した。
横たわった公瑾の身体の上に、小さな重みがかかる。足下のほうでは、軽やかにぱたぱと何かを叩くような音がして、左右を行き来しているようだった。深くに沈みかかった意識が中途半端なところで引っかかり、さりとて浮上するにもひどく億劫なので、公瑾には苛立ちばかりが募っていく。
彼女が諦めるまでの我慢だ。根気比べに突入しかかったそんなときに、顔に生温かい息が吹きかかった。弾んだそれは微妙に魚臭い。
頑なに開くまいとしていた瞼を、仕方がないと持ち上げる。――すると、薄茶けた毛に包まれた塊が、つぶらな瞳で不機嫌な顔の公瑾を見つめていた。目が合うとひと声だけ高らかに吠え、むにっと頬に前足をかけられる。
「……これは何ですか」
「公瑾殿は犬を知らないのですか」
孔明の冷淡な応えに、公瑾はついに身を起こした。
「なぜ犬が邸に」
「私が入れました。かわいいでしょう?」
ぺたりと二本の前足を公瑾に腹に掛け、胴体を伸ばした犬は舌を出して彼を見上げている。忌忌しげな視線に物怖じもせず、澄みきった黒い目を向けて再び鳴いた。
寝台に腰を下ろした孔明は、腰を捻って公瑾に穏やかな表情を見せる。
「門前にずっと伏せて動かなかったのですが、ご飯をあげたらこんなに元気になってくれました」
「孔明……」
「殿、でしょう? まだ呼び捨てることなど許していません」
口元は笑っているが、目は据わっている。公瑾はそんな彼女の顔を見てから、額を押さえて長嘆した。顔を俯かせると、犬がじっと凝視したまま動かないでいる。ちらと見やった先では、千切れんばかりに尾を左右に振っていて、それがひどく癪に障った。
公瑾はもう一度ため息をついた。
「中途半端な施しはおよしなさい。勘違いの素になる」
たとえ相手が言語を理解することのない獣であっても起こりうることだ。自分でも知らぬ間に寄せていた眉間を軽く指先で揉んでから、公瑾は頭を擡げて孔明に目をやった。
施しを与えた側の気紛れに振り回されるのは、ひとも獣も同じか。相手方の思惑など知る由もなく、調子付いて図図しくなる。
胸中で自嘲しながら、彼は口を閉ざした孔明の瞳に視線を固定させた。
「それで? 一刻も寝ていない私を叩き起こしてまでの用件とは何ですか」
「この子、かわいいでしょう?」
「……」
にこりと笑って言った孔明の言葉に、公瑾は軽く頭を振って重いため息を被せた。
「あなたは暇でしょうが、私は暇ではありません。夕刻の合議まで休みたいのです」
「風采が良いと思いませんか? 人懐こいし、むやみに吠えませんし」
「……ひとの話を」
「私も些少ながら禄はいただいていますから餌代なら出します。邸にいるときは私が面倒を見ますから」
眉尻を下げた孔明は胸の前で手を組み合わせ、滅多にない表情を見せている。やや顔を俯かせた公瑾は、ちらとその顔と眼下の犬を見比べた。相変わらず尾を振って、まるで機嫌をとってでもいるかのようだ。
物言いからして、孔明の目的は明瞭である。このように強請るさまなぞ今まで目にしたことはない。
――過日の軍議中に見せた老練な謀士を思わせる顔つきとは正反対だ。
そういった一片を目の当たりにすると、どれが本当の彼女なのかがわからなくなる。いずれが諸葛孔明という人物を構成するものであるのかが掴みきれぬ。
横顔に注がれる哀願の眼差しに、公瑾はそっと息をついた。意外に情の深いこの女のことだ、これを断ったならのちのちにまで文句を垂れ流してくれるだろう。今際の時にまで口にしそうだ。
それに、早早にこの面倒を片づけて休息時間を確保したい。とにかく寝たい。
額に当てていた手で前髪をかきあげたあと、公瑾はむんずと犬の首を掴んで持ち上げた。途端に短い4つ足をばたばたとさせて暴れ出したそれを孔明の膝上に移す。
「公瑾殿! なんて乱暴なことを」
「好きになさい」
「……はい?」
「あなたのなさりたいように」
「では、飼ってもいいのですね!?」
「同じことを何度言わせれば――」
横たえかけた身体を中途で留め、苛立ちのままに口調を尖らせた公瑾だったが、不意に鼻先をかすめた淡い花の香りや、頬に当たったやわらかい感触に思わず呼吸が止まった。
身の上にふりかかった突然の出来事に、記憶や意識が真っ白になることを、公瑾ははじめて体感した。
「こ……、孔」
「ああ嬉しい! ありがとうございます、公瑾殿」
「いえ、あの、今、なにを」
「私、動物を飼うのは初めてです!」
改めて身を起こした公瑾が、はしゃぐ孔明へとぎこちなく腕を伸ばすが、彼女は懐に抱いた犬と戯れることに夢中で気づいてもらえなかった。
頬に触れただろう唇は、満面の笑みとともに犬の首筋に埋まっている。
「孔明、殿」
「お邪魔して申し訳ありませんでした。――さ、私は出ていきますから、ゆっくり休んでください」
「いや、孔明。ちょっと待」
「公瑾殿に懐くのはもちろんかまいませんけれど、私とも仲良くしてちょうだいね。……ああ、皆さんにあなたのことを紹介しなくては」
名を付けねば、首輪の代わりに飾り紐でも、などとひとりで盛り上がった雰囲気を纏い、感情が揺れに揺れて戸惑いにこころを支配されっぱなしの公瑾のことなど素知らぬふうで、孔明はにこやかに寝所を出ていった。
遠くであの犬の吠えた声が聞こえたけれど、あまりにも距離があったのか、公瑾は嫌な顔などひとつもせず、気抜けしてぼんやりとしつづけた。
宙で止まったままの公瑾の手は、ぱくりと虚空を握る。
犬に、邪魔をされた。
彼女の唇が触れたあたりを震える指先でたどる。かの瞬きの間は、まるで真実味がない夢のような出来事だった。事実であったことを確かめたかったのに、孔明に振り回されただけでは済まされず、――犬ごときに、負けたというのか。
呆けていた公瑾は、そのままばったりと後ろに倒れた。
太陽が中天を過ぎたころ、登城する予定である公瑾の世話に向かった侍女は、知らぬ間に機嫌を損ねて起きぬ主に困って孔明に泣きついた。