はじめて恋戦記でオフ参加したときに無料配布していた文花です。
およそ1年経ったのでいいかなーと。
猫と文若さんはもう1度くらい書きたい。
知らぬ間に邸の庭を頻繁に出入りし、気づかぬ間にひどく懐いたそれを傍に置きたいと、花が上目遣いで言ってきたのはほんの数日前のこと。
出仕までの手隙の時間に、ふてぶてしい顔つきの三毛猫を抱きかかえた新妻の、それは初めてのおねだりだった。
無表情で花と猫を見やる文若に対し、花の眉尻はどんどん下降していく。
「文若さんが帰ってくるまで、独りで待っているのは淋しいですし……」
それが止めの一言になり、文若は腕組みして唸った。
婚儀以降は、手伝いを口実に出仕させることはあるが、それ以外は控えさせている。人妻となった女人を丞相府内で闊歩させる訳にもいかないし、何より彼女をいたく気に入っている孟徳がいるところをふらふらさせたくない。
文若もひと頃よりは執務が落ち着いたのだけれど、だからといって帰宅が早くなったためしもない。ここで個人的な感情や仕事を盾に取って花の願いを絶つことは至極卑怯だろう。
「……お前が責任をもって躾ろ。それと、私の部屋には絶対入れるな」
「はい! ありがとうございます、文若さん!」
そのときの満面の笑みといったら、言葉にならぬ。文若も思わずその雰囲気につられかけたが、緩みかけた表情を慌てて引き締めた。
花の眠っている寝台は、もともと文若が使用していたものだ。大人二人が横になっても充分な余裕を持てる広さがあるので、今宵のように彼女が先に寝ていたとしても、後から来た文若が脇へ潜り込むのに苦労はしない。
――そう。今までは花と同衾することに労力など要しなかったのだ。
自身よりも若い妻は背中を向けている。何事もなく、たいへん健やかな寝息を立てて眠っていた。ちょっとやそっとの物音になど動じず、このまま文若が布団の中へ滑り込んで身体を添わせようと目覚めはしないだろう。
そして翌朝にはいつものように文若が先に覚醒し、起こしてくれたら良かったのにと、習慣のように唇を尖らせる花を見ていたのだ。ついこの間までは。
だがしかし。文若は上掛けにはまったく手を掛ける素振りも見せずに寝台の前で立ち尽くし、薄い闇の中のある一点を厳しい表情で凝視する。
視線の先には、文若の横になる空間に悠悠と身体を伸ばして寝台の広さを満喫している猫がいた。
まったくもってらしからぬ物体だ。これのどこが愛玩動物か。文若は腕を組んで冷徹にそれを見下ろした。
それは、妻となった娘が望んだものだった。
滅多に自身の願望を口にすることなく、万事控えめに慎ましくしている彼女が、そのときばかりは強く願ってきたからこそ、渋々だが叶えたことだったのだ。
しかし、と、文若は目の前にあるものを見て眉間の皺を深深と刻む。こうとなるなら、錦の衣や象牙の釵をねだられたほうが遥かに良かったと思わずにはいられなかった。
上掛けの端を持ち上げたら、猫はぱっと頭を上げて金色の目を文若に向けた。――入るの? そう問いかけられていると思うのは気のせいか。
長い尻尾で幾度か布団を叩いてから、仕方がないといった風情をもって身を起こすと、しなやかな身のこなしでその場を明け渡して足下の空間へ座った。
そして文若が花を起こさないよう気遣いながら布団の内に入ると、彼が妻の身に手を伸ばす前に二人の間へ割って入ってきた。再び猫らしく身体を丸めることなく、ピンと伸ばした自身でもって二人の触れ合いを遮る。
「……」
文若は横になったまま猫を睨めつけるが、されている方はまったくそれを気にかけぬ態で目を瞑ってしまった。これは自分を何だと思っているのだろう。
猫の重みでみっちりきっちり布団がのし掛かっているので、強引に動いたら花が起きてしまうかも知れない。気づいてもらえるのは嬉しいが、そこまでするのも大人げないのではないか。
ときどきパタリと音を立てる尻尾に腹立たしさを覚えながら、文若は大きく息を吐いてとにかく眠ることに専念した。
朝は肩や爪先に感じた寒さで目が覚めた。
急に冷え込みでもしたのだろうか。一番に眉間へ皮膚を強く寄せて瞼を開き、肘を立てて扉の近くの格子に目をやると、天候と室内を満たす寒気の原因が判明した。文若はため息をつき、思わず寝台に倒れこんだ。
表は快晴というには薄暗く、雨こそ降っていないが陽が照らぬのならば今日の気温はこれ以上高くならないだろう。
そして部屋が冷えるのは扉が開け放たれたままだったから。その狭さは間違いなくあの猫が通った跡。こうして小さな嫌がらせ紛いのことを、花の目のないところでは平気でしていくのだから性質が悪い。
「んん……」
まだ眠りの深い花が、暖を求めて文若のほうへと寄ってくる。大胆に身体を引っ付かせ、こそりと夜着の袖を握るものだから、文若は思わず笑ってしまった。
未だ娘気分が抜け切らぬ久遠の花嫁。だが彼女はこれでいいのかも知れない。稚いまま純粋に、自然に綻び花開いてゆくのを見守っていけばいい。最も傍にある文若には、それを許されているのだから。
上掛けを花の肩口まで引き上げてから、自身も再び身を滑らせて横になる。布団だけでは得られぬ温もりを懐に抱きこんだ彼女と分けあうよう、文若は今一度目を瞑ることにした。
起床時には声をかけて一緒に床を離れる。夜は帰りを待てずに眠ってしまうので、せめて朝くらいはと花に頼まれた所為だ。
覚醒しきらない眼をこすりながら起き上がった花は、最初に目にする文若の姿で確りと意識を取り戻す。
「おはようございます、文若さん」
顔に淡い紅葉を散らして挨拶する彼女に、文若も薄い頬笑みを浮かべて応える。朝一番で目にするのがお互いの寝起きであることには、花はもちろん、文若もいささか面映かった。
はじめに文若の支度を整えてから、花が侍女の手を借りて身支度する。時間があれば朝食の席には一緒に着くし、なければ文若を見送ってから、花は一人ですませる。
今日は前者で、緋色の衣をまとった花は、庭に降りていた文若の下へと駆け寄った。
「走らずとも良い。……まったく、何度言っても直らぬな」
「すみません。着替えに時間がかかるから、つい」
待たせているから悪いので、と花が言えば、文若はため息をつきながら苦く笑う。女人の支度に時間がかかるのは承知のことだし、待たされるのは嫌いだが、彼女を待つことは苦ではなかった。
二人並んで食事の席へ向かう。すでに膳が置いてある室の前までくると、それまで交わしていた会話がふと途切れた。不思議に思った花が隣を見上げれば、文若は今までやわらかかった表情を一変させ、視線を細めて目の前の扉を凝視していた。
今朝の出来事を明瞭に彷彿させる、薄く開かれたままの扉。こんな行儀の悪いことをする侍人はこの邸内にいない。
彼が軽く扉を押せば、わずかに軋んだ音を立てながら人間が通れるようになった。そこへ文若が一歩入って立ち止まる。
「文若さん? ……どうかしたんですか?」
回廊で待たされる花が、文若の背後から室内へひょこりと顔を覗かせた。自分の家で何をそんなに注意を払うことがあるのだろうか。上衣をつかんで部屋に滑り込んだ花は、彼の視線の先を辿って疾くその意味を知った。
文若の席である台座へ足早に向かい、その上に丸くなっていた猫を抱き上げた。
「もう! ここは文若さんが座るところなんだから駄目って教えたでしょう?」
まるで子を叱るかのように花は胸の中の猫に言う。けれども肝心のそれは、甘えたような声で鳴き、身を伸ばして花の顔を舐めだした。まさに猫撫で声で、飼い主たる花を謀っているのか、謝っているのかはさすがに分別が付けられぬ。
文若はそれを眺めるだけだったが、口端やこめかみがひきつっているのを自身でも感じていた。
文若が侍人に引き取ってもらうよう言いつけ、花が猫を胸から離したとたんに床へ飛び降り、尻尾を軽く振りながら自ら部屋を出て行った。去る間際に文若をちらとだけ振り返ったが、それの意味するところはやはり理解できなかったし、したいとも思わなかった。
食事を終えてすぐ、若い家人が居室を離れる文若を引き止めて耳打ちしていた。出仕までの時間を庭の散策に充てようとした矢先のことだ。
「そうか。――届いたか」
「如何なされますか?」
「すぐ確認しよう。……花、済まんが先に出ていてくれ。私も後から行く」
「はい、わかりました」
彼女は素直に頷き回廊から庭へと降りていく。すると、どこかへ行っていた猫が戻ってきて、花を見上げて鳴き声を上げながら横を並んで歩く。よもや見せつけるために尾を楽しげに揺らしているのではというのは考えすぎだと言い聞かせ、その後ろ姿を憎々しげに見やってから文若は自室へ向かった。
庭園に一カ所だけ設けられた小さな四阿の中で、花は猫と戯れながら待っていた。前足を持ち上げ、人語を解さぬ獣に何やら語りかけている。
その合間に、花がいるときにしか聞いたことのない鳴き声を掛けては顔や口元を舐めていて、しかも彼女はまったく嫌がったり窘めたりする素振りを見せぬ。
声をかける前にそれを目撃した文若は、行き過ぎた行為を止めさせようと決心した。――猫に妬心が湧いたからではない。衛生上よろしくないからだ。
「花」
名を呼べば、まさしく花開いたように微笑みかけてくれる彼女は己が妻だ。
そのことに誰にともなく感じる優越感を覚えながら四阿へ入ると、花は猫の額に口づけてから立ち上がる。またあとでね、と彼女が断りを入れたところで早々立ち去る気配もない。尻尾でぴしぴしと設えられた長椅子を叩き花と文若を見上げ、金色の瞳が何ものも見逃すまいと見開かれているようだ。
ふんと鼻を鳴らした文若は、にこにこしている花に対して表情をやわらげ、掌に載せた小箱を示した。
「開けてみろ」
「何が入っているんですか?」
「見ればわかる」
びっくり箱を開ける気分だと言った花が蓋を開いて中身を見た瞬間、表情を凍らせた。ぎこちない動きで中身と文若の顔を見比べ、桜色の唇をわななかせる。
「こ、れ、って……指輪……?」
「お前が以前に言っていた。あちらには、このような慣習があるのだろう? だいぶん遅くなってしまったが、その、良ければ受け取ってほしい」
目尻のあたりをほんのりと赤くした文若が、少し腰を折って目線の高さを花に合わせる。呆然とした花は、照れと恥とを混ぜ合わせた彼の笑みを見て、目頭が熱くなるのを感じた。大きな瞳が眇められ、一息に涙があふれる。
「花? ……何故そうやってすぐに泣くのだ」
「だって、だって……!」
懐に飛び込んできた花を受け止め、文若は苦笑しながら頭を撫でた。もらえるとは思わなかったという言葉にひそりと眉根を寄せる。
婚儀の準備段階の折、花は彼女の世界での婚儀のことを尽きせぬ水のように滔滔と語って聞かせてくれた。相手の色に染まる意味で白い衣装を纏うこと、夫婦となった証に指輪を交換すること、身の丈ほどの菓子に夫婦で小刀を差し込むことなど、様々に理解の及ばぬことばかりだったが、憧れていたと、いつかと夢見ていたことだったと言って遠くを見ていた彼女の横顔は忘れられぬ。
感情こそ載せられてはいなかったが、決別した世界への想いは消えることなく、ずっと彼女の胸中に残されるのだろう。これまでの人生の大事な記録、大切な記憶として。
――こちらとあちらでは文明も文化も違う。生きる世界を違えた対価にはけしてならないけれど、出来ることならしてやりたかった。彼女の望みを、わずかなりとも叶えてやりたいのだ。
花を抱きしめ慰めながら、文若は掌中にある銀の指輪を見る。夫婦の契りを交わしたものが付けるという、簡素な銀の指輪。
「さあ、そろそろ泣きやんで、これをどうしたら良いのか私に教えてくれ」
「は、はい」
涙を拭いながら満面の笑みで花は答えた。
彼女の指示通り、まずは花の左手を取る。薬指にきれいにはまった指輪を花が空に翳してみると、陽光も射していないのに光ったような気がした。
次いで花が文若の手にそれをはめる。あまりまじまじと見ることのなかった手の大きさに、男性を意識して少しだけ胸が弾んだ。
「お仕事の邪魔にならないですか?」
「これほどならば障るまい。……丞相に見つかったら何を言われるかはわからんがな」
ため息を吐いた文若に花が笑う。先刻までの泣き顔が嘘のような晴れ晴れしさだったが、それは愛らしくも心悲しく思えた。
「……花。お前が遠い郷里を思うように、私はこの国を思っている。――だが、私がそんなお前を想うように」
「大好き。……大好きです、文若さん」
緋色の袖が広がって、花の腕が文若の身を抱きしめた。笑みながら胸に頬を寄せて、彼女は同じことを繰り返す。慣れぬことをしてまで元の世界を忘れなくてもいいと教えてくれる彼のやさしさがありがたく、とても嬉しかった。
胸に埋めていた顔を上げた花は、突然のことに耳までを赤くしていた文若に笑う。それを見られたことに決まりの悪さを感じた文若は視線を一瞬は逸らしたものの、咳払いをして自身の気持ちを整えた。
衣を掴んで踵を浮かせた花と、身を屈めた文若の唇が重なり合う。
足下で鳴きながら花の周りをうろうろしていた猫は構ってもらえぬと悟ると、尻尾をだらりとさせて四阿から去っていってしまった。
やがて時刻を迎えた文若は、花と連れ立って邸から門前までの道を往く。見送りに出る花との会話は、帰宅時間を問うものであることが大半なのだけれども。
今日もそんな会話をしつつ石畳を歩いていると、ふらふらと猫が現れて門前にちょこんと座る。文若と花がそれに気づくと、猫は一声鳴いて尻尾を振った。
「きっとあの子も、文若さんのお見送りに来たんですね」
「……そうか?」
歩みを止めずに近づいてすぐ目の前までやって来ると、猫は尻尾を立ててから文若を見上げた。普段なら花にしか掛けられぬ鳴き声に文若は訝り、じっと見つめてくる金色の瞳に目を眇めた。
「さ、一緒に文若さんのお見送りをしよう?」
「――待て、花!」
「え?」
そのときだった。
膝を折りかけた花を制した文若に猫が飛び掛かった。文若の衣を巧く伝って華麗に跳躍する。膝上や胸を蹴って登った先の顔に、しっかと前足の跡を残した猫は、そのまま文若の肩から背後へと逃れて疾くその場を逃げていった。
あっという間の出来事に、花も文若も呆気に取られてしばらく何も出来なかったし、動けなかった。
「……何だったのだ……」
「さあ……あ、あー! こらぁっ! なんてことするの!」
既に姿は見えなかったが、花は猫が消えた方角に向かって怒鳴った。それから慌てて手巾を取り出し、唖然としている文若の頬に付いた泥を謝りながら必至に拭った。
しかし、猫の足跡は顔だけではなかった。飛び上がった際に触れた衣の裾や胸元、肩口の襟にまでしっかと残された猫の足跡に、花が泣きそうになる。
「す、すぐに着替えを」
「……時間がない。このままで構わん」
「でも!」
涙目になって縋る花の頬を撫で、文若はなおも言い募ろうとした彼女の手を解して門を出た。
ちゃんとあの子のことを叱っておきますから! ――子供が出来る前にあんな科白で見送りを受けることになるなど、いったい誰に予測しえただろうか。
城へ向かう馬車の中で泥の付いた胸元を眺めながら、文若は長く重いため息をついて眉間に寄せた皺を揉み解し続けた。
城へついてすぐ、誰ぞに知られる前に泥の始末をつけさせようとしたが、運悪く孟徳に見つかってしまって抱腹絶倒の如き爆笑を買ったことは、花には黙っていようと思った。