タイトル考えるの苦手です……。
すんなり出てくるときもありますが、ときどき本当に困る。ときどきじゃないか。
格好良いタイトルをつけたいです。いつも思う。
城内にも慌しさが増し、玄徳との婚儀までようやく指折り数えるまでになった。
会う時間がまったく取れぬほど玄徳はあいも変わらず忙しないことこの上ないようだが、その伴侶となる花は手習いと孔明の手伝いに明け暮れる、常と変わらぬ日々を過ごしていた。変わったことといえば以前より集中力が散漫になったと怒られることが増えたことくらいだ。
「気持ちはわからないでもないけどさ。お使いがてら、少し頭を冷やしてきな」
説教をされるものと思って身構えた花は、肩透かしを食らったように目を瞠る。そんな彼女を視線の端に捉えた孔明は、笑いながら新たに広げた竹簡に筆を滑らせた。
「ありがとうございます、親切でやさしくて男前な孔明様。はい復唱」
「……どうもすみませんでした師匠」
不満を明瞭に現した弟子に「ボクより捻くれてるよね」と苦笑し、孔明は書簡に視線を留めたまま手を振って彼女の退出を促した。
各所へ書簡を届けると、それと交換するように新しいものを渡される。これも毎日の繰り返しで、手ぶらで執務室へ戻った例はない。まるで孔明の多忙さを示す証拠のようだ。
この世界に落ちてきたときより読み書きが出来るようになって手伝いの範囲が広がったものの、輔けるにはまだまだ力不足の感が否めない。まだ子供のようなものだと思える。学校で勉強をし、家で母親の手伝いをする。今がまさにそんな感じだ。
住む世界が変わっても為すべきことは同じなのかも知れないと、花は回廊を歩きながらひとりで笑っていると、対面から布巾を載せた盆を手にする芙蓉が現れた。
「何か楽しいことでもあった?」
「別に、なんでもないよ」
「私に隠し事をするつもり?」
彼女の艶やかな口唇の両端が楽しげに上がる。それを見た花は、幾度か目を瞬かせたのちに不穏な気配を感じて後退るが、芙蓉がそれを見逃すはずもなく、あっさりと身柄を確保されてしまった。
抱えていた書簡は芙蓉によって処分された。近くにいた哨戒中の兵士を捕まえて孔明へ届けるようにと指示を出したのち、身軽になった花の手を引いて2人は回廊を飛び出した。
連れて行かれたのは四阿だ。中に入り席に着くと、芙蓉は早速盆にかけていた布巾を取って中身を披露した。小鉢の中身は一口大の揚げ餅。香ばしい匂いに花の顔が思わず綻ぶ。
「あなたに聞いたのを作ってみたの。ぜひ感想を聞かせてほしいわ」
花はさっそく手を伸ばしてひと欠けらを口へ放り込んだ。塩を軽く振っただけの素朴な味付けだったが、懐かしい食感に笑みが止まらない。
「すごく美味しい。向こうで食べてたのと変わらないよ」
続けて欠片を手にしながらそう言うと、芙蓉は良かったと言って破顔した。そして先ほど笑っていた謎を話題に上げてから自らもそれを口にした。
「元の世界でもこっちの世界でも、やることは変わらないんだなって思って」
そう、と相槌を打つ芙蓉の表情はとてもやさしい。深く問うことをせず、相手の気持ちを慮ってくれる。――何だかお姉さんみたいだ。知らず内に花の顔には笑みが浮かんでいた。
こちらに来て失ったものがあれば、得たものも多数ある。彼女との友情はこちらに来なければ縁のなかったもので、今となってはかけがえのない大切なものだ。
「また何かあなたの世界の料理を教えてね。挑戦してみるから」
「うん。私にも教えてね。暇な時間が出来たら……あ、難しいかな?」
「それくらい別に、いつでも構わないわよ。……けれど、料理人がいることですし、奥方様は何もなさらなくてよろしいのでは?」
「ふ、芙蓉姫! ……わ、私は、まだ、玄徳さんの奥さんじゃないもん」
「時間の問題でしょう。今さらなに言ってるのよ」
意地悪げに煌いた双眼が瞬く間に呆れ返った。目元をほのかに染めた花を一瞥した芙蓉は、頬に手を添え、興が削がれたように素っ気なく明後日を向いてしまう。
「でもねぇ、奥へ入った女性が厨房に立つのってどうなのかしら」
その言葉に、花は揚げ餅をつまんだままきょとんとした。ためらいを浮かべて芙蓉が視線を元に戻すと、花は揚げ餅を手に持ったまま黙ってしまった。
生きる世界を異にした花にとっては、自身の知る常識が通用しないことを経験してきた。それを思えば、芙蓉の懸念も別段改めて悩むことではない。
しかし、近い日に伴侶となるのは今上帝の覚えもめでたい皇叔。そのような人物に恥をかかせるのなら話は別だ。
不安を込めた視線を芙蓉に返せば、彼女はわかっているとばかりに満面の笑みを刷いた。
「まあ、花に限っては有りかも知れないわね。玄徳様だって、きっとお止めにならず、逆にお喜びになって薦めるんじゃないかしら」
「俺が何だって?」
背後から突然湧いた声に女性2人は身を竦めた。けれど芙蓉は正体を知って安堵の息をつくも、驚愕に固まったままの花をこっそり睨みつけた。
(先約があったのなら言いなさいよ!)
「え? せんやく、って」
「それでは、わたくしは失礼させていただきます」
なにがそれでは? 花は小声で芙蓉に突っ込むが、彼女はわざとらしい所作でもってそれを遮り、玄徳に一礼して連れてきた花を置きざりにして去ってしまう。花は呆然とし、遠ざかっていく姿を眺めることしかできなかった。
「そこ、いいか?」
玄徳は今まで芙蓉の座していた箇所を指差した。意識を戻した花は問いかけに対して慌てたように首肯を繰り返し、袖でその場を軽く払ってどうぞと勧めた。四阿へ入った玄徳は礼を言ってから腰を下ろす。
2人きりになるのは久方ぶりだった。同じ敷地内にいるはずなのに、偶然が働いているのか運が悪いのか、姿すら見かけること叶わず、声すら掛け合うこともなかったのだ。
玄徳がじっと花の顔を見つめると、彼女は頬を赤くして微笑んだ。小首を傾いだ仕草が愛らしい。
「芙蓉と何を話していたんだ?」
玄徳の問いに、花は残された小鉢の揚げ餅のことから、料理の手ほどきを頼んだことまでの内容を掻い摘んで説明した。結婚した女性が厨房へ立つことに難色を示されたことも含めて伝える。すると彼は、顎をさすりながら視線を足下に向けて口を噤んだ。
やはりいけないことだったのだろうか。花が不安を顔に張り付けると、玄徳はそんな彼女に苦笑した。
「都の高位高官の妻女ともなればそうかもしれない。しかし、お前も知ってのとおり、俺はそういったものとは縁遠い田舎者だからな。そういったことは気にはしないし、それに」
「……それに?」
「お前の作ったものは美味いし、それを食べられるのは何より嬉しい」
喜色を浮かべた視線が、羞恥に染まった花を見てさらにやわらぐ。
元の世界へ帰ることを願って止まなかったのに、帰るべき路を閉ざしてまで共に生きることを選んでくれた少女。路傍に佇む小さな蕾がたおやかに花開けるよう、彼女が彼女らしく在れるように守りたい。
「窮屈なことが多少は増えるかもしれないが便宜は図ろう。俺はお前を型にはめるつもりはない」
「ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべて彼女が元気に頷くと、玄徳も倣って小さく頷いてみせた。
羨望すら覚えるまっすぐな感情はとても彼女らしく、それを目の当たりにする度に愛しさが募る。
見つめられていることに照れを増し、花は居たたまれなくなったように視線を逸らして卓上の小鉢を玄徳の前に滑らせた。
「あ、あの、玄徳さんはお腹空いてませんか? これは芙蓉姫が作ったんですけど、とっても美味しかったですよ。感想を聴きたいって言っていたから玄徳さんも」
「花」
「は、はい!」
「おいで」
緊張して高くなった声を遮って手を差し伸べた。花は腰を浮かせ、はにかみながらその手を取って場所を移る。ふわふわした足取りで玄徳の脇へ行って促されるままに隣へ座った。肩に回った腕が彼女の身体を引き寄せる。
こういった触れ合いはいつまで経っても恥ずかしい。しかし、嬉しいのも事実。花は手や腕から伝わるあたたかさに目を伏せた。
「……婚儀のことは公祐らに任せきりになってしまっているが、不安に思うことがあれば何でも言ってくれ。もちろん、俺に対する不満でも構わない」
と、玄徳。政務ばかりで彼女に気を回せていないことを、致し方ないこととはいえ申し訳なく思っているのだろう。もたれ掛かっていた身体を跳ね上げた花は、髪を振り乱して頭を振った。
胸中に不安を落とす謙譲の美徳。玄徳は眉尻を下げて淋しそうな笑みを作った。
髪を梳いた玄徳の手が頬に滑って花の顎を指先でとらえた。この先の行為が知れて花はそっと目元を染め、来るときめきに瞼を降ろす。近づいた吐息が混じって口唇が触れ合う――まさにその寸前、だった。
「桃之夭夭 灼灼其花~」
暢気な声の接近で、2人は同時にぎくりと身体を強ばらせた。花は思わず身を屈めて隠れ、玄徳は声のした背後を振り返る。孔明、との呟きがこぼれると、彼女はさらに身体を縮こまらせた。
「おや。いらっしゃらないと思ったら、こちらで休憩中でしたか」
「俺を捜していたのか? すまなかったな」
「いえいえ、執務中に浮ついていた仕置きで部屋から放り出した弟子が戻らないので、私も気分転換をかねた次第です。今朝方の草稿と諸々の報告を置いてきましたので、今日中に目を通しておいてください」
孔明は猫のように目を細めてそう言うと、息を潜めていた花がびくりと震えた。華奢な背においた玄徳の手にその振動が伝わる。
「なあ孔明、花はお前にとって弟子だろうが、近く俺の妻となる身だ。あまり虐めないでやってくれんか」
「それは重々承知しておりますとも」
しかし、だからこそでしょう? 告げる声音はいつもの彼らしいが、向けられた視線は、どこか遠くを見ているようで捉えどころがない。口を開きかけた玄徳を制するように、孔明は袖口を合わせて頭を垂れた。これ以上、この場で話すことはないと言外に含ませて。
「ああ、書き取りの教材を増やしておいたから――と、もしあの娘を見かけたら伝えていただけますか? このようなことを殿へお頼みするのも大変心苦しいのですが」
「いや。他ならぬ伏龍先生の頼みだ、引き受けよう」
謝意を示してから身を翻した孔明は、現れたときと同様に詩を口ずさみながら去っていった。
姿が完全に消えてから背に合図を送ると、起き上がった花は苦虫を噛み潰したような顔つきだった。様々な恥ずかしい経緯を他人から知らされ、赤くなっていいやら青くなっていいやら、困惑に果てた表情だ。玄徳が呵々と笑いだすと、彼女は覚悟を決めたように真っ赤になった。
「お互い様だから気にするな。俺も昨晩、孝直と文偉に最近たるみすぎだと長々絞られた」
欠伸を堪えるのが大変だったと、彼はおどけて言う。それを見て強ばっていた表情をゆっくりと綻ばせると、花も一緒に声を立てて笑いだした。
「たぶん、孔明はお前が隠れていることを知っていたぞ」
甦る孔明の意地の悪い声に、玄徳は苦笑を浮かべながら隣を歩む花を見た。
その一言に、彼女は大きな瞳をさらに大きくし、ぽかんと口を開けて立ち止まった。玄徳が名前を呼ぶと、花は頬を朱に染めてから器用に蒼褪めた。
「ど、どうしましょう……」
「いつも通りに接すればいいさ。しかし相変わらず一筋縄ではいかんな、お前の師匠は」
素知らぬふりをしつつも突かずにはいられぬ。そんなところか。愛弟子を見守ってやりたいのだろうに、捻くれているのは隆中に在りし頃より変わっていないようだ。困惑して往生する花の頭を撫で、肩を抱いて歩みを促した。
もうまもなくしたら時間に都合がつく、と別れ間際に玄徳が言った。ふと隣を見上げると、彼はやさしい眼差しを降ろしている。
「待ってます」
花は一言だけを告げた。自身の帰る処が彼の下であるように、彼の帰る場所が此処であるようにとの願いを込めて。
ひとと交わり、情を交わし、愛し慈しみ、想いを育てて自らの選んだ道を往く。
生きてゆく世界を違えたところで、為してゆくことはきっとどちらでも変わらない。
ひとつ微笑みをこぼし、それじゃあと言って花が踵を返そうとした刹那、玄徳はその行動よりも疾く彼女の両肘を捕らえて腰を折った。突然のことに丸くなった彼女の目に己の姿が映るのを見つつ、桜色の唇を啄ばんで素早く離れる。驚愕に言葉をなくした花だったが、ひと息に全身を真っ赤に染め上げた。
「お互い頑張ろう。ただし、無理はしないように」
玄徳は花の頭を撫でてから肩を取り、硬直した彼女の身体を軽々と反転させた。ぽんと背中を押されて一歩を踏み出した花は、髪をふわりと広げて後ろを振り返った。
会えなくて淋しいけれど、こころは通い合っている。視線を受けてそう感じられた花は、離れていく姿に向かってお辞儀をしてから、彼女もまた彼に背を向けて回廊を駆け出した。