で、子龍なんですが、……ゲームプレイしなおしても偽者加減は直りませんでしたというか悪化したような気がプンプンしていますよ。
10本あるからひとり1本いける、と思ったのがとんだことに。子龍君に申し訳ないことをした……
眩しい陽光が格子から眺められる日中に、子龍は寝台にいる。傍で林檎の皮を剥いている花の姿に目をやりながら、子龍は何とも言えぬため息をついた。
体調を崩したかも知れぬと思ったのは昨夜のことだ。ここ最近、朝と夕の気温差が大きかったこともあったのだろう。しかしそのような些細なことで変調をきたすなど未熟もいいところだ。しかしこれ以上悪化させるのはもっと迷惑をかけることになる。そう思い、日常のひとつとして行っていた鍛練をいつもより早くに切り上げて休むことにしようとしたところを、彼らに見咎められてしまったのが運の尽きなのかもしれない。
事情を知った玄徳は珍しいと目を瞠り、その背後にいた孔明は黙して怪しげに笑っていた。たぶん、それが現状を招くことになったのだろう。
部屋に戻って着替えている最中、花が部屋に飛び込んできた。
「子龍君! 具合が悪いって本当!?」
幾分、顔を青褪めさせた彼女は、すぐさま近づいてきて彼と自分の額を左右の両手を使って覆った。
「熱は……ないみたい。――お医者さんに診てもらった? 薬は飲んだ?」
「あ、あの……花殿?」
「玄徳さんと師匠から聞かされて驚いたんだから。……あの子龍君がって思ったけど、調子が悪くなることは誰にだってあるよね。ごめんね、勝手な思い込みなんかしちゃって」
「いえ、その……それは自己管理が出来ていない証でもありますので、あなたが謝られることでは」
花は子龍の手を取って微笑んだ。
「ううん、子龍君が毎日がんばっていることはみんな知っているもの。……ごめんね」
食事のときも水じゃなくて、白湯にすればよかったね。眉尻を下げ、たぶんにずれた気遣いを口にした花に、子龍はどんな反応をすれば良いのかわからなかった。
返答に惑っていると、花は子龍を寝台へと追いやった。そして明日の予定を全部白紙にして休養することと母親さながらの調子で告げ、医者を呼んでくるといって忙しなく出て行ってしまった姿を、子龍は呼び止められず、見送ることしか出来なかった。
疲労なので2日ほど休めばよくなるだろう、などと至極適当なことを花に吹き込んでくれた愛想の良い医者のお陰で、まったく寝台を離れられなくなった。付ききりで看病をすると言う花はあれこれとはりきって面倒を見てくれる。しかし、余計な世話とは言えぬが、人手を要するほど重篤でもないので子龍は花の様子に困惑を極めた。
「あ、あの、花殿」
「してほしいことがあったら何でも言ってね。……何でもって言っても、出来ることしか出来ないけど」小首を傾げてにこりと笑った彼女に何を言えようか。子龍は寝台の上で是と頷いた。
寝台脇に立ったまま、花は朗らかでやさしい笑みを浮かべている。子龍はそれを軽く見上げて、まさか彼女は今すぐ「してほしいこと」を言えと待っているのだろうかと思った。
いやそんなまさか。食事には半端な刻限であるし、医者の言ったことを鵜呑みにするのなら寝ていればいいだけなので、看病は特に必要ない。子龍にはこれといって頼みたいことが見つけだせなかったが、花が立ち去る気配を見せないので、困惑がさらに深まった。
立たせたままでは悪いと思って声をかければ、待ってましたとばかりに身を乗り出される。
「お腹空いた? それとも、何か飲む?」
「い、いえ……その」
やや子龍が身を引いたのを見て、花があっと口元を押さえて眉尻を下げ、自らの勢いを謝罪した。
「具合が悪いのにひとがいたら休めないよね。……ごめんなさい。いつも子龍君に面倒かけてばっかりだから、こういうときに何か出来たらなって思ったんだけど、これじゃ迷惑にしかならないよね」
再び謝罪の言葉を述べたのち、ぺこりと頭を下げて花はその場を去ろうとした。けれど、やわらかく翻った上衣の袖の端を、子龍は咄嗟に握り留める。くんと衣が引かれたので立ち止まった花が振り返ると、至極真剣な面持ちの子龍がいた。
「迷惑、では、ありません。――その、こういったときに何を頼めば良いのか私にはわからないので、ご教示いただければ、……花殿に頼みたいことがわかる、かもしれません」
「何でも。……何でもいいの。子龍君がしてほしいことで、私が出来ることだったら」
花がそう言い、袖を取っていた子龍の手に触れ小さく笑う。彼の言葉はとてもまっすぐだ。ときどきそれが過ぎて困ったり恥ずかしくなったりするけれど、それが隠されることのない彼のこころの現れなのだと知れば、愛おしさもひとしおである。
花は踵を返して寝台の端へ浅めに腰を下ろした。ほんのりと頬を朱に染め、子龍の手を軽く握りながら微笑みかける。
彼女の顔に普段のやさしい笑みが戻ったことで子龍はこそりと安堵の息を吐き、重ねられていた花の手から自分の手を抜き取って、逆に花の小さな手を握り返した。もちろん彼女は守るべきか弱い女人なので力加減には配慮したが、恋人という関係にあっても室内に2人きりという滅多にない場面なので緊張感は拭えなかったけれど。
戦さ場にあってはないが、こういう時の震えは如何ともし難い。子龍はそれを誤魔化すかのように、驚いて瞠った目の向かう先を逸らすべく奮闘した。
「そ、それでは、何か話を、していかれませんか。私はこのままで失礼をさせていただきますが、――ああ、もし無礼であるならすぐ起きて」
「ね、寝てなきゃ駄目だよ! 子龍君はそこまで気を遣わなくてもいいの」
子龍の身体を横たえさせ、花が掛布を肩まで上げて整える。彼が大人しく横になったことで満足した花は、今度は寝台ではなく床に座り、これで目線の高さが同じだと言って笑った。
「何を話そうか。……子龍君の子どもの頃のこととか、訊いてもいい?」
「私は花殿のことが知りたいのですが、これは、してほしいことに数えても良いのでしょうか」
「え! ――あ、うん、いいの、いいんだ、そういうことで。……笑ったりしないでね」
はにかみを寝台に隠した花は、ぽつりぽつりと記憶に残っていることを語りだした。彼女の口からこぼれる耳慣れない単語に首を傾げて話の腰を折ることもしばしばあったが、花は始終やさしい微笑みを浮かべて語ってくれた。
ふと会話の途切れた瞬間に、きゅるりと何かの音が鳴る。その発生源を探ろうと耳を欹てるより先に花が顔を赤くさせたので、子龍は起き上がって未だ床に座ったままの花の腕を引いた。
そろそろ昼食の時間だろうことを言い、彼女に食事を勧めようとしていたら、まるで狙い済ましていたかのように芙蓉が訪ねてきた。2人分の食事と果物を置き、簡単な見舞いを子龍に告げてさっさと出て行こうとする。
「ああ、花。今日は来なくてもいいって孔明殿が言っていたわ。子龍殿の面倒を見てあげなさいって」
「うん、そうする。ありがとう、芙蓉姫。師匠にもお礼を言っておいてもらえる?」
「わかったわ。――頑張りなさいよ、子龍殿」
朗らかにもほどがあろう笑みを浮かべた芙蓉は、怪訝な顔つきの子龍に意味有り気な視線をひと目くれてから立ち去った。
「……私が何を頑張るのでしょうか」
「さ、さあ……」
芙蓉の態度へ揃って疑問を浮かべつつ食事をとり、余裕があるならと花は果物の入った小さな籠の中から林檎を手にした。
「1日1個食べると医者が要らないって言われてるくらいだから」
「ありがとうございます。小刀とはいえ、どうか気をつけて」
皮を剥く軽快な音が室内に満ちる。得意だと言っていただけあって、投げかけた不安など何処吹く風というように、花はあっという間に林檎を捌いた。
「はい、どうぞ」
差し出された小皿に載る、食べやすく切られた欠片をひと口だけ齧る。すぐさま広がった甘酸っぱさと香りに喩えがたい気持ちが生じた。己を律するあらゆるものから解放されているような長閑な時間。
疲労などとは大袈裟で考えられぬ事態ではある。そしてこの浮ついた気分は、本来なら咎められるべきものであるのかもしれない。彼女を守らねばならぬ身としては早急に日常を取り戻して鍛練を重ねたほうが良いのではないかと思う気持ちも少なからずあった。
――けれどせめて今日くらいは、と。
様子を窺って手を休めていた花と目が合えば、自然と互いに笑みが浮かびあがってくる。供されたもう一片に齧りついた子龍は、この気持ちも分かち合いたいと、彼女にも林檎を勧めた。