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文武の官をそろえて客殿で面会を果たした仲謀は、玄徳と並んで宴の準備を整えてある奥の広間へと歩いていった。挨拶もそこそこに孔明の名を出す玄徳に、仲謀は穏やかに対応をしつつ内心でせせら笑った。
広間の高座では席を並べ、すぐ隣で杯を交わす。随従する雲長にも席が設けられていたが、諸官より勧められる酒は口を濡らす程度に留めていた。傾け、飲むふりをして周囲に目を配る。酔って玄徳を護ることも出来ぬとなれば将として恥以上のものを受けることになろう。まさかこういった席で、とは思うものの何が起こるかはわからないのだ。右隣の空席を盗み見た雲長は、杯を膳に戻してこそりと嘆息した。
生命は皆同じように繰り返されるが、完全に同じ歴史をたどったことは一度もない。誰かの一挙手一投足で世界の運命は如何様にも変わる。
ざわめきの絶えぬ広間の中で玄徳らのやりとりに耳を澄ましながら、視線は向かいにある仲謀軍の面々が並ぶ席に向ける。雲長は不可解な笑みを浮かべて杯を手にしている公瑾に目を留めた。
公瑾や孔明だけとも思えないが、何ものかに執着するこころがあることを気の毒だと思った。
「孔明はまだ来ないのですか」
そう言った玄徳が焦れて腰を浮かせかけたのを仲謀がやんわりと制止する。そして給仕をしていた侍女のひとりに、孔明の様子を見てくるよう命じた。雲長は横目で高座を見、すぐさま転じて公瑾を見る。彼は相変わらず胡散臭い微笑を浮かべて酒を飲んでいた。
「玄徳殿はずいぶん伏龍先生に執心なされておいでだな」
「それはもう。彼女は私の支えであったのですから。……時に仲謀殿。つかぬことを伺うが」
玄徳は言葉をいったん切って杯を呷った。
「こちらに来る前、江陵で耳にした噂のことなのだがな」
酒甕を持った官が居並ぶところで手を添えたとて、会話が密になることはない。しかし玄徳がそうして仲謀の席に向かって身体を傾けたとき、侍女が控えめに孔明の到来を告げた。
仲謀の目が大きく見開かれ、同時に公瑾が目線を鋭くして高座に視線を投げた。束の間、2人は目を合わせたが、場のざわめきが大きくなったことで広間の入口へと視線を転じた。
それぞれに座を離れていた官吏たちが道を開くように席へ戻り、侍女たちも仲謀の視界を塞ぐ中央から後方へと下がる。
そして視線を集中する開放されていた大扉の影から、そろりと孔明が現れた。密やかに交わされていた会話も登場した姿で瞬時に声を失くし、飲食していた手も凝固したように止まる。公瑾の強張った顔すら例外ではなかった。
きれいに結い上げられた髪に挿された細かな飾りの多い大振りの簪が、入口での一礼で煌びやかに揺れる。沈黙に支配された広間の中央を、孔明は閑雅な足取りで進んだ。青味を基調とした衣の裾を華麗に捌き、紗の領巾を優雅になびかせて粛粛と高座へ向かい、開いた口を塞げぬまま呆然としている仲謀と、冷静さを保つ玄徳の前で膝をついて袖口を合わせた。薄化粧を施して艶を増した顔にたおやかな微笑をたたえて軽く頭を垂れる。
「遅くなりまして申し訳ございません。――御二方がこうして席を並べられ、友好の盃を交わしておられますこと、祝着至極に存じます」
玄徳が今度こそ席を離れ、恭しく孔明の手を取って立ち上がらせた。
「これもそなたの働きがあってこそ。礼を言うのは我々のほうだ。なあ、仲謀殿」
「あ、……ああ、そうだとも」
仲謀もその場に立って拱手する。その動きはぎこちなかったが、孔明は女性らしいやわらかさで仲謀に目礼した。
「わが君も久しくながら、ご健勝で何よりにございます。こちらでご厄介になっている間にも御身のご活躍はたびたび耳にしました。曹子孝を追いやり江陵へ入られました由、重畳にて」
「うむ。ふらりと士元殿がお見えになり、この玄徳へのお力添えをお約束くださった。――伏龍たるそなたと鳳雛先生が揃えば、我らも公瑾殿や仲謀軍の猛将らと引けを取らずともに闘えよう」
玄徳の言葉に広間がどよめいた。左右のものと顔を見合わせたり、仲謀や公瑾の顔を窺ったり、玄徳と孔明に険しい視線を投げるものと不揃いでせわしない。
周囲のざわめきがまるで聞こえておらぬように、玄徳は孔明の手を力強く握っている。もはや志は成ったも同然とばかりの態度にも見えた。
しかし、泰然とした玄徳の前で、ふと孔明が袖で顔を覆って視線を伏せた。
「わが君のお言葉、非才なる身に余りある栄誉。……けれど、わたくしはもうわが君の傍らには立てぬかと」
孔明はかすかに潤んだ瞳で玄徳を仰ぎ見て、衣越しに合わせている彼の手を軽くつかんだ。
玄徳にも雲長にも何も伝えておらぬこの状況で、果たして彼らに伝わるだろうかという不安はある。けれど、ひとのこころに触れることが巧みな玄徳ならわかってくれるだろうという微々たらん気持ちが勝った。
曇る表情の玄徳の手を、孔明から強く握り返す。そしてちらと冷めた視線で一挙手一投足をも見逃すまいと目を凝らしている公瑾を一瞥してから、哀しみをたたえた目で玄徳を振り返った。
「こうして仲謀軍と手を携えられた今、もはや両軍に境は無きも同然。孔明はこの江東に残りとうございます」
「残る……?」
「わたくしは昨晩に、そちらにいらっしゃる周公瑾殿と夫婦の契りを交わしたのでございます」
恥らったように玄徳から逸らした顔を袖で覆い隠し、けれども満座に渡るよう声を落すことなく孔明は言った。
広間にどよめきが起こる。仲謀は目を丸くしたあとに顔を険しくし、公瑾は周囲の甚だしい喧騒を受けながら眉根を寄せた。仲謀の鋭い視線に、舌打ちすら出来ない。
その騒ぎの中で、玄徳は不安に揺れた声音で孔明に問いかける。
「では、噂は真実だったのか」
「殿が聞かれた噂の内容は存じませんが、公瑾様がわたくしを妻にと望んでくださったのは昨夜が初めてでございます。少々、その、……乱暴ではありましたが、彼はわたくしのこころのしこりを取り除いてくださったのです」
曰く、両軍が並べば曹孟徳すら目ではない。人材に乏しい玄徳軍には鳳雛がいるのだから、女人が軍中にあり、大勢を殺める策を献じる必要はなく、軍師という位から身を引けば良い。劉軍と孫軍の連盟あれば結ばれることは易く、両者の仲睦まじきことを知らしめれば、曹軍も警戒を強めて江東へも荊州へも迂闊な手出しはしてこまい――。
「こちらで戦がなくなれば、民たちは玄徳様と孫大守のご英断を高らかに言祝ぎましょう。わたくしどものことも、政略婚などと穿たれはしますまい」
「確かに、民にとっては喜ばしいことだろうが」
「……それに、公瑾様はこうも申されました。わたくしが嫁ぐのなら、赤壁でのことは水に流し、荊州を今のまま玄徳様が治められるよう手を尽くそうと」
「公瑾!」
黙って聞いていた仲謀の叫びとともに、かっと目を見開いて怒りに捕らわれた公瑾は立ち上がると同時に膳を蹴り、玄徳と孔明の元に大股で近づいた。手を重ねあった主従の間を裂き、孔明の腕を乱暴に取り上げる。すると孔明は、大袈裟に痛みを訴えてその場にうずくまった。
「お、お許しください公瑾様。閨での密事とは露知らず……、乱暴は――ああ、どうかもうぶたないでくださいまし」
彼女の身体の震えは閨でのものと酷似している。だがそれをまともに受け止められるほど容易な相手ではない。公瑾は足下の孔明を無言で睨みつけた。
――孔明はうずくまったまま小さなため息をつく。滑稽だ。しかし通さねばならぬ。
まったく潜めようともしないささやきあいが広間を満たしていく。動揺も嘲笑も綯い交ぜだ。
その中でひとり、雲長だけが白々しい視線で中央の彼らを眺めていた。
「公瑾、どういうことだ!」
「伏龍がどういう人物であるか、仲謀様はお忘れですか? 彼女は謀士です。たやすく信じられませんよう」
「では、すべて偽りだというのか」
仲謀の間を置かぬ切り返しに、公瑾が表情を改めて口を開いた瞬間、まったくの沈黙を守っていた雲長が箸で菜を摘んで割りこんだ。
「かの美周郎が孔明の才に惚れ込んで娶ったともっぱらの噂。江陵や南郡のみならず、京城へ至るまでにも聞きました。巷間では今後荊州以南で戦は起こらぬだろうと、たいそう賑やかな雰囲気でしたが」
「ああ、俺も聞いたぞ、仲謀殿。逆に祝われてしまって申し訳なく思った」
「な……っ」
始終素っ気ない雲長を見、少し首を傾げて宙を見た玄徳を見やった仲謀は、やや愕然として孔明を見下ろす公瑾に目を向けた。
屈んで顔を伏せたままの孔明からは啜り泣きが聞こえる。その様を直で見られる中央に面した席から徐徐に声が絶えていった。
「見目形に恵まれぬ田舎者ですが、わたくしとて女。……兄上様の代わりに身を粉にして弟妹の面倒を見、期を逸してもはや薹が立ったいかず後家と嘆かれ、果ては無理やりにも契りを交わした方から見捨てられるなど……! この亮にはもう生きている価値がありませぬ!」
その場に突っ伏した孔明は大声を上げて嘆きだした。その態に仲謀は何とも言えぬ複雑な表情を浮かべ、目だけを動かして広間を見渡した。このとき、青褪めた頭を抱えそうな勢いの子瑜も目撃したが、それに対してはため息をつくだけに留まった。
「仲謀殿。それに公瑾殿。如何か」
孔明の元で膝を折り、彼女を助け起こす玄徳の呼びかけに、主従は同時に鋭い視線を向けた。
「その、だな、……閨で言い交わしたことはひとまず置こう。だが、事実契りを交わしたならば」
「待たれよ、玄徳殿。――公瑾、いずれが真実なのか答えろ」
「……契りましたことは、事実です」
「それでは責任を取っていただこうか。よもやわが軍の軍師を辱めておきながら見棄てる、などと言うわけではないだろうな」
袖で涙を拭う孔明の肩を抱き、玄徳は鋭く公瑾を睨んで言った。小さな痛みを伴う強さに、顔を臥している孔明は申し訳ないと思い、よくぞ調子を合わせてくれると感心してもいた。
衣の影から公瑾の横顔を見たなら、彼はこの上ない不快感を隠しもせず顔を顰めている。自業自得だろうと孔明は舌を出したい気分をこらえて嘆息した。
荊州領有で揉める、この時こそも惜しい。時間と力、どちらも玄徳に必要なものだ。
孔明は肩にある玄徳の手をやんわりと解くと、そそっと足裏を滑らせて顰め面の公瑾に悪びれる様子もなくぴたりと身を寄せた。思いも寄らぬことに、ぞわりと公瑾の全身に鳥肌が立つ。
「……孔明もその気のようだし、この縁組がまとまれば彼女の兄君も大いに安心なされるだろう。加えて、才気煥発な2人が夫婦となるなら、我々も足並みを揃えやすく、孟徳もそう易々と進軍出来まい」
引き攣りそうになった口を引き締めた玄徳は、真剣さを押し出して彼女の行為の後押しをした。
孔明が仲謀軍に身を置くということがどのような結果になるかはわからない。――自身の命が惜しいのではない。彼女の策を信じぬわけでもない。けれども玄徳は、孔明のこころを信じようと思った。
「もし断ったら、玄徳殿は如何なさるおつもりで?」
「刺し違えてでも貴兄に責任は取ってもらう。孔明を娶るのみがそれと思うな」
「殿……!」
孔明は思わず叫び、公瑾の袖を強く握った。眼下に見る悲壮な顔に、しかし公瑾は口の端を上げる。身を乗り出す孔明の痩身を制し、静かに怒る玄徳と対峙した。
玄徳軍の足下に噂をまいたのは公瑾の手の者だ。如何な尾ひれが付着しようと、そこから発生するだろう混乱と動揺、孔明に対する疑心はあらゆる好機になる。雲長や玄徳の聞いたという噂もそこから派生した可能性はあろうが、ただ江東で耳にしたというあたりは疑わしい。これは公瑾が手を下したことであり、他の誰も与り知らぬことであるはずだ。
仲謀軍に孔明を与えて何とする。孔明の策だとしたらあまりに手緩い。
「文台殿も伯符殿も高潔な士だった。そして仲謀殿も、お二方と同じように立派に孫家を背負っておられる。――公瑾殿。伯符殿の親友であった貴兄が、このような卑劣な手段で名を貶め、主君にまで恥をかかせるつもりか」
語調を強めて玄徳が言うと、公瑾は伯符を持ち出されたことが気に障ったのか、今までよりもぐっと顔つきを険しくさせた。今度は孔明が、玄徳の真向かいに進み出ようとする公瑾を押し留める。帯剣していたらきっと互いに抜きあい、たちまちのうちに打ち合いへ発展しただろう。
策をもっと練り上げる時間が欲しかった。孔明は心中で苛立ちを高めたが、目の前で高まってゆく一触即発の空気に緊張を強めた。
宴席に似つかわしくない雰囲気が濃くなるにつれ、途切れていたざわめきが戻っていく。まとまる気配がない。拗れたら戦になるだろう。この遣り取りで今後の関係がどのようになるのか、という興味のほうが先に立つようだ。
孔明が助力を求めて仲謀や雲長を振り返ろうとしたら、下手の座から、これまた場に相応しくない穏やかな笑い声を上げて歩み寄ってくる人物が2人の間に割って入った。
「お2人とも引きなされ」
「子敬、殿」
「公瑾殿、なにゆえこの満座で女人に恥をかかせなさる。――御覧なさい。子瑜殿なぞ、器用にも目を開いたまま失神しておいでですぞ」
子敬が振った袖の先を皆が振り返る。その先では、哀れにも座したままぴくりとも動かぬ子瑜がいた。仲謀は眉を顰め、公瑾はため息をつき、孔明と玄徳は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
それぞれが状況を確認した中、子敬はゆっくりと仲謀に向き直る。
「噂が如何なるものであろうと、疾く河北にも知れましょう。ここで玄徳殿と事を構えれば、曹孟徳がひとり手を叩いて喜ぶだけかと思われますがのう。――この目出度き此度の一件、わしはまとめて良いかと思いますが、仲謀様は如何に?」
穏やかな表情で髭を撫でながら、子敬は仲謀の顰め面を拝した。己に何の断りもなく公瑾が陰で密かに動いていたことが癪に障ったのかも知れぬ。いま少し泰然としてほしいものだが、若いだけにこころに感じたことを表に出しすぎだ。子敬は主君の沈黙にも言葉を重ねる。
「我々も先の戦でまったくの無傷ではなかったのです。今はあらゆる回復に努め、領内の安定に重きを置かれるほうが子布殿らも腕の奮い甲斐がありましょうの。それに、民は荊州より淮南をと望んでおりますことは、仲謀様もご存知のはず」
子敬の言葉でぴくりと仲謀の眉が動いた。子敬の言いたいことはわかる。玄徳も多くの難民を抱えているが、こちらも徐州からの難民が多いゆえに、赤壁での勝利でその声が高まっていることも報告を受けていた。しかし、南郡を基にした今以上の玄徳軍の勢力拡大は脅威だ。この同盟が破棄されて北と西の2方面に兵力を分散させねばならない事態も避けたい。
仲謀は腕を組み、中央で睨みあっている玄徳と公瑾を見た。士元を得た玄徳から孔明を除けば、あるいは局面が変わるだろうか。
「……公瑾。お前はどうするつもりだ」
公瑾の取った策はけして褒められたものではない。伯符とてこれはさすがに怒ったに違いないだろうと思える。女を盾に取るなど卑怯甚だしい。
仲謀のわずかに怒りを含んだ刺々しい視線に、公瑾は小さなため息をついた。
場を収め、かつ孔明の策の裏を取らねばならぬ。傍らに張りつくこの女が自ら恥を晒した理由など、ひとつどころではないだろう。
躊躇することなく直線を射る玄徳の視線を逃れ、公瑾は寄り添う眼下の孔明に目をやった。主を見ていた眼が不意に昇り、不安に揺れて公瑾を見上げた。彼女から発信される明らか過ぎる感情を訝るが、公瑾はそれを孔明がこの策によって得たい結果の確実な裏付けとして受け止めた。
「玄徳殿。――そして、仲謀様。お許しいただけるのなら、孔明殿をこの公瑾にお与えください。無論、犯した罪がこれによって拭えるとは思いませんが、玄徳殿の仰るとおり、筋を通して責任を取らせていただきたく思います」
「孔明。あんたはどうなんだ。それでいいのか」
「お認めいただけますのならこの上なき幸い。わたくしのようなものが両軍の仲を取り持てるとは思いませんが、至純なる尚香様を政略の駒とされるよりは国太様のご心痛を減らすことが出来ましょう」
孔明の言葉によって仲謀と公瑾の眉間に深々と皺が寄る。仲謀はそんな話は誰とも論じたことはないし、よもやそんな手を考えていたのかという呆れによるものであり、公瑾はもちろん、仲謀に一言も打診したことのない余計を言われたからだ。
脇の孔明をひと睨みした公瑾はひとつ咳を払い、玄徳へと膝を折って拱手する。
「後ほど内々に請うつもりでしたが、このような場で公然と口にされるとは思いませんでした。ご不興を招きました段、ご容赦ください」
公瑾が仲謀以外に身を屈した様で、広間にはどよめきが沸いたけれどそれは一瞬にして引く。人々は雑音を立ててはならぬとばかりに口を閉ざし、視線を中央に定めて成り行きを見つめた。
あからさまに不快であることを示す玄徳を前に、公瑾は常なる平静をもって相対している。
「周公瑾より改めまして、諸葛孔明殿をわが妻にと望みますことの許諾を、劉皇叔へ願い奉ります」
「……人質としてこれを許容するわけではない。貴兄は伴侶として添い、その身を以て孔明を守れ。いま以上に彼女へ汚名を着せることも、恥辱を受けさせることも罷り成らん」
「拝命いたします」
硬い声音の返答に、孔明も公瑾の隣で膝を屈しようとしたが、玄徳はそれを制止させた。彼女の望みであったことだが、本意ではない。こうすることで孔明が守ろうとしたものは、彼女の矜持と引き換えに出来るほど大層なものではない。たとえそれが主の生命であったとしても。
頭を垂れる公瑾を苦々しく眺めたのち、玄徳は仲謀を振り返った。
「仲謀殿、貴公にもお願いする。孔明は此度の同盟締結の贄として差し出すのではない。俺に不満があるのなら、力で彼女を貶めて盾にするのではなく、俺に直接伝えていただきたい」
「承知した。孔明殿のことは俺も気を配ろう」
二人が真剣な表情で手を拱き合うと、広間には何とも言い難い吐息がこぼれていった。それは事が荒立たなかったことへの安堵であったり、玄徳軍を対等な相手として受け止めたことへの無念さであったりしたかもしれないが、いちいち確認する手段はない。けれど、孔明が胸をなで下ろしたことは確かだった。
のちのち公瑾にも釘を差さねばなるまいし、そうしたところで完全に手を引くと思えないが、雲長がいるならどうとでもしてくれる。――玄徳が無事に荊州へ戻ること。彼の存在が世に残ることこそが第一だ。
そのためなら一度の命くらいくれてやる。
玄徳が高座へと戻り、仲謀と再び席を並べた時機を計った孔明は拝謝している公瑾の隣で平伏した。
仕切りなおした宴席では、玄徳が席を外したとき、仲謀は子敬を近くに招いた。問わずとも、視線を投げかけた瞬間に彼は穏やかに目を細めた。
「荊州を今しばし玄徳殿にお預けしておけば、孟徳の目はあちらに向きましょう」
先の戦で公瑾ならびに孔明が手を携えたことで孟徳を揚州から撃退した。玄徳軍も追撃には回ったが、それだけだ。鳳雛を引き入れたとて孔明は江東にあり、絶対数で玄徳軍はどちらにも劣る。いくら優れた軍師がいるとはいえ、手駒となる兵が少なければ策の幅は大いに狭まる。いずれに目を付け、手を着けるかは誰が考えても同じ結果に行き着くだろう。
「それに応じて合肥を目指すのも悪くありませんなあ」
「……孔明が邪魔するかもしれないだろ」
荊州を足がかりに益州へ手を伸ばすかもしれない。景升の後継を断りはしたが、季玉のときも同じとは限らない。孔明のことを切欠に信条を転じるやもしれぬ。そうなったら厄介ごとが増えるだけで、伏龍を得た旨味など何もない。余計な手出しをしなければそれで構わないが、足枷となるようなことをするなら、あるいは。
仲謀が顎を摘んで思案に沈むと、子敬はいつものように笑い出して髭を揺らした。
「孔明殿が恩義や情けを知らぬ方とは思えませぬが」
「あの玄徳につくくらいだからな。――まあいい。そのときになったら考えよう。公瑾が勝手に先走らないよう、お前も気に掛けてくれ」
「御意に」
中原制覇はもちろん叶えるべきことだが、経緯がどうでもいいわけではない。父兄の遺志に、――とりわけ、伯符のこころに強い執着を残す公瑾のやり方には、兄も呆れているのではないだろうか。
しかし、過ぎたるは及ばざるが如し。腕を組んだ仲謀はため息をついて杯を手に取った。
中途半端な空気が賑やかになり、酒の勢いで騒ぎになってきた頃、孔明はこそりと中座した。酒はもう匂いだけでもこりごりだ。衣や領巾にまとわりつく酒精を払い除けるように大股で乱雑に回廊を歩いて部屋を目指す。宴席に侍っているのだろう、奥の棟からも侍女らの気配は昼間よりだいぶん減っていた。付き纏うように側から離れぬあの若い娘も今はいない。
孔明は部屋に入って扉を閉ざすなり、豪奢な簪を引き抜いて台座に放った。結われた髪に手を差し込んで容を崩し、化粧の残る顔全体を力いっぱい領巾で拭った。借り物だということはわかっているが、怒りに駆られて抑えようがなかった。
肩を上下させるほど荒げた呼吸の合間に室内の空気が動いた。波が引くように向かい風が起こる。孔明は食いしばっていた力を解いて俯いた。足音が近づくたびに金具の音が小さく混じる。
「やってくれましたね。よもやあのような恥知らずな行為に及ぶとは思いもしませんでした」
「その言葉、そっくりあなたにお返しします」
「主君のためにあえてという意気は評価しましょう。しかし、淫奔なものを迎えたと知れたら親族に何と言われることやら。……どうしましょうね? 孔明」
「誰が呼び捨てることなど許しました」
怒気を纏った孔明が半身を転じると、刀を手にし、薄笑いを浮かべた公瑾が立っていた。彼は空いていた利き手を腰に当てて鼻先でふんと笑う。
「もらってやるのですから、これくらいは構わないでしょう」
「違いますよ。くれてやるのですから、あなたはもっとありがたがらねば」
嫌みたらしく孔明は言う。格子から通る淡い月の明かりに浮いた公瑾の顔からすっと表情が消え、同時に孔明も感情を落として平静な顔つきに戻った。細まった彼の視線に照準を合わせるものの、刀に気が向いてしまう。わざわざ持ってきたということは、脅しもあるだろうし、実力行使に及ぶ可能性もある。
孔明は握っていた領巾を手放して床に落とした。
「私が玄徳様から離れるだけでは不満ですか」
「まだ鳳雛先生がいらっしゃる。……あなたは孫呉に膝を折れないでしょう? 仲謀様が躓かれぬよう、私は足下の小石すら見逃すわけにはいかないのです」
公瑾はゆっくりと刀を抜き、闇の中でも不穏に光る切っ先を孔明に向けた。彼女はそれと公瑾の顔を無表情に見比べて小首を傾いだ。
「……私ひとりだけで満足なさいませ」
「せっかくの好機を見逃せと?」
「あなただけならともかく、孫大守まで貶められるのは本意ではないでしょう? 玄徳様とは堂堂、正面から挑んでこれを破りなさい」
今ここで生命を落とすかもしれぬ人間の進言とは思えない。まるで他人事のようだ。孔明の言葉に公瑾は眉をひそめ、いつでも切りつけられるとばかりに直刀を構えたまま慎重に一歩ずつ前進し、刃が孔明の身体に当たるとそこで歩みを止めた。
互いの呼吸は通常通りで、特に興奮したところは見られない。簡単に生き物が死んでいく戦場に在る身としては特異な状態でもないだろう。けれど、公瑾は見つめたままの彼女の双眸に違和を感じた。
ふと眉根を寄せたところで、孔明がすっと右手を前に伸ばした。人差し指が一本だけ立っている。
「命乞いなら聞きませんよ」
「いいえ。頼みというか、条件というか、ひとつだけ。玄徳様には必ず殺めた理由を伝えてください」
かすかに微笑んですらいる孔明に、目を眇めた公瑾は黙って続きを待った。
策のひとつだということは玄徳もわかっている。だが、袂を分かってのちに落命しても理由は届かない。だから、打ち止めた本人の公瑾が伝えれば良い。
邪魔だったから。気紛れに。つまらなかったから。
どのようなことでも良い。玄徳らに伝わることが肝心なのだと、訝る公瑾の透った眼差しをしっかりと受け止め、一度も瞬きを挟むことなく孔明は告げた。
目元だけだった変化が顔全体に広がる。公瑾は端麗な造りを歪ませた。
「……もし秘めたままなら、どうなるというのです?」
「そうしたら、……そうですね。この仕返しをさせていただきます。望みの叶わぬ口惜しさを、あなたもまた思い知るとよろしい」
その魂に傷跡として刻み込まれ、死してのちにも忘れ得ぬほどの悔恨を。
そう告げた孔明の眼差しの奥に浚えぬ昏い澱みを見る。口端をわずかにあげただけの不穏な笑みに、公瑾は嘲るように目を細めた。
「気でも触れましたか。死んでしまえば次はない」
「あなたはそうでしょう。でも、私は違いますから」
理解し難い彼女の言に公瑾がぴくりと刀を持った手が動く。それが衣へ少しだけ食い込んだそのとき、公瑾の背後から足音が聞こえた。それはこの部屋の前で止まったが、彼は振り返ることなく前を見据えていた。
扉を軽く叩く音に続いて小声で孔明を呼びかける。雲長だ。
室内では、正面にいる相手の動きを見逃すまいと互いに視線を逸らさなかった。
「中は障りがありますので、申し訳ありませんがそちらからお願いします」
「そうか。――明日、時間を取れないか? 玄兄が話をしたいと」
「……わかりました。明朝、私から伺わせていただきます。また広間へお戻りに?」
「いや、もう休む。さすがに飲みすぎたようだ」
「それでは二日酔に効く散薬でも持っていきましょうね」
「1人分でいいからな」
挨拶の代わりにとんと小さく扉を鳴らし、雲長の足音は遠ざかっていった。振りではなく、気配が完全に消えたところで、知らず緊縮していただろう公瑾の雰囲気が緩んだような感を受けた孔明が小首を傾ぐ。やるのか否かと、静かに浮かべた微笑のうちに問われている気がした。
ひどく穏やかに見える彼女の瞳には、生命の遣り取りをしている最中だというのに、諦観や絶望すら超えた不可思議な色合いが見受けられる。これは先に感じた違和の正体であろうかと思ったけれど、そのことを問うには難しく、また答えを得てみても意味のないようにも思えた。
肉を断ち、生命を絶つものが薄布一枚の上に辛うじて留まっているこの状況で表れる感情ではないだろうに。
しばらくしたのち、不意に公瑾が刀身を引いた。衣の上を軽く滑らせたが切り裂くこともなく、流麗な所作で鞘に収められる。孔明がそれに目を瞬かせると、彼は薄い唇の端をわずかに持ち上げた。
「おや、諦めるのですか? 意気地なし」
「命拾いしたのだから礼くらい言ったらどうです」
そんな筋合いはないと孔明はぼやいたが、公瑾に鼻先であしらわれた。入室してきたときと同じように剣を片手にして孔明に背を向け、そのまま扉へと向かった。掌で押し開き、半身だけを回廊に出したところで立ち止まり、微動だにしない孔明を横目に見る。
「あなたの厚顔に免じてしばらく預けます。またこうならないよう、今後は慎みなさい」
「……あなたよりずっと薄いですよ」
公瑾が去って闇に閉ざされた部屋に、目を瞑った孔明のつぶやきが淋しく落ちた。
翌日は雲長に言ったとおり、食事を終えたころを見計らって玄徳を訪った。
装飾品を一切身につけていないうえに質素な衣という、一見は着飾ることを好まぬ孔明らしいと思えど、最初に贈った上衣と羽扇を入れた行李を差し出されると、座していた玄徳は思い切り眉を顰めて立ち上がった。
こちらでは必要のないもので、揮う機会もないだろうと孔明が苦くも笑ってみせる。
「お前にやったものだ。必要がなくても持っているといい。それにその上衣は、お前の他に袖を通せるものは居らん」
畳まれた薄桃のそれを取り出し、風をはらませて広げ、玄徳は手ずから孔明の肩に羽織らせた。もったいないとばかりに孔明は指先で衣を薄く擦る。
「……とても悔いている。お前を俗世に戻さなんだらこのようなことにはならなかったかもしれぬと思うと」
胸の前で固められた拳を取り、孔明は傷だらけのそれを慈しむように撫でた。この手はきっとこれからも苦難の道を切り開いていける。偽者ではあるけれど、諸葛孔明という存在がなくても、彼を慕って幕下に加わるものたちとともに、自らの信念を貫いてくれるだろう。
「最後までお供出来ないことが残念です。……ですが、身体はこちらにあろうとも、私は常に御身のことを思っております。せめてこころだけでもあなたのお傍に。どうか一緒にお連れくださいませ」
同じ世界を生きていくうえで、仕えるひとを選ぶことだけは出来ていた。それすら定められていたことだったとしても、自身のこころで定めていたという思いがある。それはささやかな抵抗であり、魂の終焉を見出せぬまま繰り返す生のよすがだった。
今回は自らの失態も重なってそれが覆された。世を形成する駒のひとつでしかないことを思い知らされたようで口惜しいことこのうえない。
自らの手で包んだ玄徳の拳を額にいただく孔明の眦には、薄らと涙が滲んだ。
今生の主とした彼と共に歩めぬことはとても哀しく、師と呼んだひとから名と存在を奪ったにもかかわらずそれをなぞることが出来ぬこの身の哀れを嘆くにはあまりにも惨めだった。
公瑾らのこともあり、仲謀より京城への逗留を勧められたが、玄徳はそれを丁重に断って早々に江陵へ戻る旨を伝えた。出発時に士元より長居は無用と言われていたこともあるが、孟徳軍の動静や今後の展望を考慮に入れるなら、玄徳がこちらに長く留まることは宜しくないとした孔明の進言もあってのことだった。
言葉通り、仲謀軍が合肥方面への出兵を考えているのなら、そこに玄徳軍の連動を加えたほうが揺さぶりの度合いも違ってくる。孫劉両軍が同盟を結んだことで手を出しあぐねるような孟徳ではないが、様子見であっても兵を動かさぬのであれば内政の充実を図り、兵の質も向上させるべきだ。
玄徳の引き止めを計った官を孔明が一蹴する。そして今すぐにでもと玄徳へは帰還を促した。
城門まで。外壁まで。――船着場まで。
まだ陽は高く、馬もある。同盟は無事成立させる役目を果たしたのでやることはない。
見送りを申し出た孔明は、様々に言い訳をつけて最終的に川べりまでついていった。仲謀に名代を命じられて公瑾も一緒についてきていたが、その間、彼は一度も口を開かなかった。
馬上で他愛のない言葉の遣り取りをしていた時間はこころ穏やかだったけれど、玄徳に迎えられてから間もない頃の懐かしさをひどく昔のことのように思わせた。
船に荷を積み込む兵らや指示を与える雲長を背後に見つつ、玄徳と孔明はしめやかに惜別の情を交わす。
「士元殿は口利きがぞんざいで、試すこともままありましょうが、それはあなたを思ってのこと。――民の声を聞くように皆の言葉にもよくよく耳を傾けてくださいますよう」
「それではまるで俺がいつも短慮を起こしているようだ」
「事によっては血気に逸るようですので」
「気をつけよう」
玄徳はうっすらと笑った。小さなことだが、感情がそこに至れるようになったことは淋しくもある。
「何としてもお前を連れ帰ってこいと芙蓉に言われていたのだが……」
「申し訳ありません。……芙蓉姫へは私から一筆したためました。これで勘弁していただいてください」
孔明が懐から取り出した文を受け取り、玄徳がそれを自身の懐に仕舞いこんだ。そして孔明の顔を再び見上げたとき、雲長が横から控えめに木箱を差し出してきた。彼はそれを玄徳に渡したあと、孔明を一瞥したが声は掛けず、また船のほうに去っていった。
小首を傾いだ孔明の前で、玄徳はその箱を開く。
「これは、お前に。このような場で渡すことになるとは思わなかったな」
菖蒲の透かしがある銀の簪が1本。目線だけで問いかけると、玄徳は苦苦しく微笑して小箱ごと孔明の手に乗せた。
せめて、と彼は言う。
「女人であることを忘れて欲しくなかった。――まあ、俺が言えたことではないんだが。衣ではお前が受け取らんだろうと思ったのでな」
何もかもを捨ててほしくなかった。半ば世を捨てたような人物を世間に引っ張り出し、あまつさえ女人を戦に関わらせた。だから――と思うのは利己心ゆえなのだろう。孔明には簡単に見抜かれようとも、そうすることで自身の後ろめたさだけがわずかに和らぐという勝手極まりない気持ちだ。
項垂れかかった玄徳を、けれど孔明は微笑みながら覗き込んだ。
「お気遣いありがとうございます。……如何でしょう、派手ではありませんか?」
「我ながら良きものを選べたと思うぞ」
孔明はさっそく髪に挿してみせる。玄徳が頷くと、彼女は若い娘のように嬉しいと言ってはにかんだ。
そんな2人の遣り取りを後方で眺めていた公瑾だったが、雲長が近づいてきたので背筋を正した。彼はしばらく無言で立っていたが、公瑾が用件を問い質すより先に口を開く。
「孔明は、長兄が迎えた玄徳軍の正軍師だ。――表向きで夫婦とあるが、今回以上に彼女を侮辱するのであれば、その命、無きものと知れ」
「不穏当な発言ですね。手を携えゆく同志に脅迫とは、関将軍はずいぶん恐ろしいことをなさる」
「脅しなんて生易しいことじゃない。……周公瑾。俺が必ずお前を討とう。永劫忘れえぬほどの屈辱をその身に刻んでやる」
「そ、……れは、どういう――関将軍!」
返答を待たずに身を翻した雲長を公瑾は追いかけたが、彼は後ろ髪を引かれてやまない玄徳を促し、船へと行ってしまった。
その手前、雲長は乗り込む寸前に孔明を振り返る。そしてやわらかい色合いの双眸を捕らえた。
けして自ら死を選ばぬこと。彼女と交わした約束は、久遠にも等しく守られている。
皆と違う輪廻の輪に縛られているが、死してやり直すことなど本来なら誰にも出来ぬことなのだ。いくら次があるからとて安易な考えで生命を絶ってほしくない。そう思っての約束を強引に結ばせて重苦しい戒めとしたが、孔明はそれをよく守ってくれている。
世界の流れに身を委ねる彼女が天寿によるものでなく志半ばで絶えるのは、彼女個人の意志に他人の思惑が介入したときだけ。それだけは回避できるよう陣門を同じくするときには様々に手を尽くしてきたのだが、今回はそれも叶わなくなってしまった。
わずかに目線を落すと、孔明のまとう空気が穏やかなものに変わったような気がした。
「どうぞお元気で。武運長久を祈っております」
「ああ。……またな」
小さく笑んだ雲長は、孔明の二の腕を軽くたたいて船に乗り込んだ。簡素な別れの言葉に孔明は思わず眼を瞬かせたが、次の瞬間には笑顔を浮かべて手を振った。再会が必ず果たされる相手ならば余計に飾りたてた言葉など要らぬ。
橋板が引き上げられ、出発の準備は整った。
雲長が合図を送ると一斉に櫂が水面を波立たせ、ゆっくりと船が動き出した。玄徳たちは口を結んだままで甲板から地上の2人を見下ろす。
「公瑾殿。孔明を頼む」
「重々に」
玄徳の厳しい視線と、その背後、雲長からの刺々しい視線にさらされた公瑾はその言葉に拱手して目礼を返した。
その隣にたたずむ孔明にも何か言葉をかけようと思い、玄徳は口を開いたけれど、刹那的に普遍的な単語のひとつも浮かばず、結局は閉じてしまう。胸元で振ろうとしていた孔明の手が降ろされてしまうのを見て、唇を噛んだ。
「玄兄。孔明に報いたいと思うなら、生きて江陵へ帰り着き、振り返らずに先へ進むべきです。――あれはなかなかに強い女。玄兄が望めば、またいずれ会えるでしょう」
「……――必ずだ、雲長。必ず連れ戻すぞ」
「御意」
江の中央を悠々と登っていく船尾にて、玄徳は縁に拳をたたきつける。岸辺で深々と腰を折っていた孔明の姿を目に焼き付け、己の不甲斐なさと力不足をこころに戒め、消えるまで見つめつづけた。
景色の中で点となり、目を凝らしても見えなくなった船の軌跡すら川面から跡形もなくなった頃合いに、公瑾は上流に目をやったまま吐息をつく。孔明に似た意味合いを含んでいたのだろう雲長の言葉はとても気にかかったが、こうして離ればなれになってしまえば、遠からず意識することもなくなるだろう。
「城へ帰りましょう」
隣人を見ることもなく公瑾は踵を返し、馬を繋いだ木立へ足を向けたが、緩慢な動きで上体を戻した孔明は一歩も動かなかった。
ため息をついた公瑾が苛立ちのまま彼女の腕をつかみとる。力任せに引いたが、彼女は抗うように身体を捻った。
「しばらく放っておいてください。馬もあるのだし、適当に戻ります」
「孔明……殿」
「今は、どうか。……ひとりにさせてください」
玄徳たちの消えていった方角を凝視したまま、孔明は泣いていた。声を震わせていたが、嗚咽をこぼすことはなかった。まったく瞬きをせず、頬をぬらす滴を拭う素振りすら見せず、ひたすらと言っていいほど江の上流から目を逸らさない。
日差しを反射させて江の水が輝いているように、彼女の涙も同じように陽光に照らされて煌いている。
愁いに染まりつつも毅然としたその横顔を、公瑾は素直に美しいと思った。