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公瑾が京城へ戻りついたのは夜が深くなってからだった。
馬を預け、後事を大雑把に諸将へ言いつけると、自身は足早に城内へ入った。沓音も乱雑に、そして沈着を常とする彼らしからぬ苛立ちを露わにして回廊を突き進み、主に女人が起居する奥の棟を目指す。
すでに灯りの落ちている部屋の扉を、大きな音を立てて乱暴に開いた公瑾は、無遠慮に寝台へ向かう。障屏を避けて紗幕を払いのけ、髪を乱して寝入っている姿を言葉もなく見下ろした。
間もなく気配を察した孔明が目をこすりながら身を起こす。
「こんな時間に何事――」
「どんな手を使った」
「はい? ……っ」
寝ぼけた反応で更に腹を立てた公瑾は、薄い肩を強くつかんで顔をのぞき込む。孔明の眼がきつく眇められた。
「江陵が落ちた」
「……落ち、た? いったい誰が」
「私がここに来たのならわかるでしょう。どのような策を玄徳に与えたのです? いつ、どうやって!」
荒ぶったこころのまま身体を揺さぶると、孔明の顔が痛みに歪む。公瑾の手を押さえ、唇に食んだ髪を除いた彼女は、顔を顰めて公瑾をにらみ返した。
「その問いに答えられるわけがない。それは誰よりも、――公瑾殿、あなたがご存じでしょう?」
姿を眩ましたとあっては涙を浮かべ、城内で行方を撒いたとあっては泣き崩れ、情けにつけこみ困惑を極めさせんとした面倒この上ない見張りを付かせたのは公瑾の仕業であろうに。
口角を上げて孔明は薄く笑い、眉をつり上げた公瑾を見上げた。
陸口から京へ連れられてこのかた、玄徳らと遣りあったものは何もない。文を出すにも、内容を確認されるのでは策をしたためる意味もなし、捨てられて届かぬとあってはさらに無意味だ。
陣中見舞いに訪れたとき、人目を忍んでの会合を指摘しているのならそれこそ見当違いも甚だしい。あの時分、戦さの行方は誰も知りえなかった。勝つ気であった孔明にはもちろん、――雲長にだってわからぬものを。
言葉を失くしたようにひたすら見つめてくるだけの公瑾の視線を、孔明は強い光でもって逸らすことなく受け止めつづけた。彼の問うところに疾しいことなどありはしないと告げるために。
「手を、離していただけませんか」
「……失礼。取り乱しました」
苦々しいものを飲み込んで公瑾は姿勢を正すと、ひとつだけ深く息をついた。
孔明が淑やかな手つきで乱れた襟元を調える様を静かに眺める。幾分、艶めかしさすら感じた胸元の白い肌がやけに目についた。
掛け布を持ち上げて膝を折り曲げた孔明は、公瑾を一瞥してのち、上掛けに袖を通してその場から身を滑らせて立ち上がる。
「少し話していかれませんか。私の身の潔白と、よろしければ、此度の因果を説きましょう。……すべて憶測となりますけれど」
さらりと髪をなびかせた孔明が障屏の反対側へ姿を消す。公瑾は半瞬遅れてそれに従った。
知らぬ間に扉近くで控えていた侍女に酒の支度を頼んだ孔明は、手燭のささやかな灯りを頼りに壁際の大きな壷から大判の地図を取り出し、部屋中央の卓へ広げた。小さな灯りを増やして地図を照らしてから、また棚へ戻り、小箱を手にして戻ってくる。中身は簡素な木の四角い駒で、ただ黙って立ち尽くす公瑾の視線を感じながら、孔明はいくつかの駒を地図の上に配置させた。
渋る公瑾から、江陵攻略の軍議の内容と経過、そして深夜に押しかけてくることになった結末を微に入り細に入り問い質した孔明は、酒を届けにきた侍女が出て行ってからあらぬ方向に目をやって黙り込んだ。無意識にだろう、人さし指で唇を撫でながら考え込む姿を、公瑾は静静と手元に配された杯から少量の酒を口に含んで眺めやる。
確かに彼女の連絡手段を断たせたのは公瑾だ。早期発覚を見越して尚も危うい行動を起こさせぬために、仕付けられてもいない娘を傍に置くよう言いつけたことも潔く認めよう。現に孔明は玄徳と簡の遣り取りすら出来ず、自身が持つような間諜の類なども身辺に近づくことはなかったという報を受けている。公瑾の行方を探っていたようだが、涙もろい侍女の扱いに困って部屋でおとなしくしていたこともしばしばあったと聞いた。
少なく、偏った情報で何を言うつもりか。憶測といえその場しのぎの空論を並べ立てるだけなら誰にだって出来る。時間が経過するに従って、公瑾の表情には険しさが満ちていった。
わずかに荒立てて杯を置くと同時に、宙を漂っていた彼女の視線が地図に降りた。
「改めて申しますが、これから言うことは私の推測です。よろしいですね?」
前置きに公瑾が頷くのを見、孔明はするりと駒に手を伸ばす。
それから彼女は滔滔と語った。玄徳軍の方策を述べ、それぞれに配置された将軍と兵数を細かに挙げ、それに対応する孟徳軍の動向を説きながら駒を動かす。その間、公瑾の顔を見ることはない。地図と駒を見据えたまま疑問を投げたなら、まるでその光景を見ていたかのように淀みない返答がなされた。
ひと通りの説明を済ませた孔明がちらと見遣ると、公瑾は秀麗な顔を厳しくさせていた。口元を掌で蔽い隠して地図を凝視したまま動かない。
不言不語の姿を照らす灯りが揺れる。壁や床に映る影が幽かに微動するのを孔明は眼の端に捕らえながら、ただ静かに呼吸を繰り返すだけとなった公瑾の反応を待った。
「……可能、なのですか」
「不可能ではない、と思います。ただ、ひとつでも手を誤れば玄徳軍の被害は甚大でしょう」
孔明はそう言って、右手でひらりと空を掻いた。そこで羽扇を持っていなかったことに気づき、誤魔化しに小さな咳をこぼす。
空理さながらの推察が信じがたいようで、孔明の目には公瑾が努めて平静であろうとしているように見えた。ひっそりと深呼吸を繰り返す彼を見遣ってから、孔明も改めて地図に目を落とした。
誰が――。孔明の頭に残る謎はそこだ。
玄徳の陣営はいつだって人材に乏しい。文武を問わず彼の人柄を慕って軍に加わるものはあるが、それでも満たされることはなく、不足をどう捻出するか悩むことになる。彼の側にいて江夏に至るまで、ずばり言うならこれだけの献策がなせるものを、少なくとも孔明は思い至らなかった。
一種、博打にも近い危険な策を主君に提示できるだろう人材なら幾人かの心当たりはある。しかし、果たして玄徳に行動を起こさせるほどの背景を持つものとなれば――。
「……まさか」
思わずといった体で声をこぼした孔明を、公瑾は鋭い目で睨んだ。それを真っ直ぐに受け止めた彼女の双眸はにわかに柔らかくなる。顔全体に浮かんだ和やかさは遠い昔日を思い出す老人のような雰囲気を纏っていて、それは少しだけ公瑾に違和感を覚えさせた。
「もしかしたら、玄徳様の元で雛が本性を現したのかもしれませんね」
「――鳳雛先生か……!」
卓を叩いて立ち上がった公瑾は、驚愕に見開いた眼で紙上の、荊州への足がかりとなるはずだった江陵城を見つめた。
南郡を掌握したそこに鳳雛が加われば、先に孔明が述べた策の実行は可能であろう。綱渡り的な危険が伴い、たとえ不測の事態が起ころうと、それを補って余りある妙計を弾き出せる才の持ち主だ。
けれど。公瑾が眉根を寄せて孔明を見た。士元のことは、子敬が目をかけていて仲謀に引き合わせる算段を取っていたはずだ。それがなぜ、玄徳の下にあるのか。――やはり孔明が、陸口の陣中から手を回していたのではないのだろうか。考えれば考えるほど、目の前の女が怪しいとしか思えない。
そんな公瑾の疑惑を見透かしたように、孔明は不敵な笑みを刷いた。
「まだお疑いでいらっしゃる? ご自身が不在の間に施した策は抜かりなく私を戒めてくださいましたのに」
「いえ、……まこと鳳雛先生であるのなら、江陵も簡単に陥落せしめましょう。ですが真実とするには些か怪しいのでは?」
「すべて憶測だと申し上げましたでしょう?」
袖を口に当てた孔明が無邪気なように小首を捻った。ここまできたら、もはや選択肢があるはずもない。確信にも近い強さで士元の方策だと言える。
俄事に様々な感情を内包させた公瑾の刺々しい眼が向かった先の孔明は、眉尻を下げて苦々しくも笑ってため息をついた。信じ難い気持ちがわからなくもないが、こればかりは仕方がない。世界の粗方を知ってしまっている己と、何も知らぬ、まっさらな彼との差はどうしようもないのだ。
「事実を確かめる術ならひとつだけありますよ」
「それはどのような?」
「私が玄徳軍に帰ることです。そうすれば何もかも明らかになりましょう」
互いに何も言わぬままで視線を交わらせていたが、ふと孔明がくしゃみをして身を震わせた。鼻をすすり、辛うじて残っている暖を逃がさぬように上掛けの襟を掻き合わせる。
「今宵はこれまでにしましょうか。風邪を引くのも面倒です」
「……わかりました」
公瑾は入室してきたときの勢いとは打って変わり、優雅に礼を取って背を向けた。そして扉に手を掛けたとき、孔明が寝台に行きかけた踵を返して彼を呼び止める。
「士元殿のことなら、仲謀殿か子敬殿にお訊ねなさいませ」
何の反応も見せずして公瑾が退室したあと、孔明はその場にため息をこぼしてから、まだわずかにあたたかさが残っていた布団の中に潜り込んだ。
そこから先、完全に意識が落ちるまでたいした時間はかからなかった。
翌日――。
内容がまとまることなく、時間だけを浪費した感のある朝議が終了したのち、公瑾は広間に最後まで残ってひとがいなくなるのを待った。子敬だけを用事があると呼びとめ、喧騒が去りきったあと、濃い疲労の色を浮かべている仲謀と、暢気な表情の子敬に、率直に鳳雛のことを問うた。
途端に機嫌を悪くした主君の気を向けるため、江陵陥落に関係のあることだと言うと、仲謀が不承不承と重たくなった口を開く。
子敬の推挙があり、鳳雛という異名に敬意を払って対面をしてみたのだが、世に轟く道号に相応しからぬ横柄な態度と乱暴な口利きには我慢がならなかった、とは仲謀の言だ。回想に怒りまで巻き戻されたかのように、仲謀は硬く丸めた拳で卓を叩きつけた。その振動で積んであった簡がいくつか床に転がり落ちる。
それをのんびり拾い集める子敬は、やはりのんびりと言う。
「仕官にはあまり乗り気でない様子だったのだがのう……」
それから数日の間を置いて子敬が再び彼を訪ったところ、庵は蛻の殻だった。狭い屋内は生活用品が整頓されていて、鳳雛が飛び立ってから時間が経過していることだけを教えてくれた。
「……玄徳に付いたってのは、本当なのか」
「孔明殿はそう言っておられました。――私も、そう思います」
思わざるを得ない。認めたくはないが、そうとしか考えられぬ。眉根を寄せた仲謀に視線をやりながら、自身もまた苦い気持ちを飲み込んだ。
「同盟相手とはいえ、玄徳に余計な力が付くのは論外だな。伏龍だけでなく、鳳雛まで奴が抱き込むなんて面倒なことこの上ねえ」
「仲謀様」
「今はまだ、曹孟徳っていう、お互い睨みをきかせなきゃならねえ相手がいるからこうしていられる。……けど、いずれ邪魔になる。俺たちが智勇で玄徳に劣るとは思わねえが、向こうが力を増すのは話が別だ」
強い光だと思う。兄、伯符のそれとはまた違う輝きだが、秘めているものはやはり同じように思えた。煌く碧のまっすぐな視線を公瑾は受け止め、指先までもが流麗なる動きをもって拱手し、その意を得たりと深く頭を垂れ、仲謀が奥へ行ってから広間をあとにした。
せめて対等。できれば下位。執務室へと向かう公瑾の歩調は思考を整えるように静かだった。
仲謀が述べたように、今以上に玄徳が力を得ることは好ましくない。原因の一端を仲謀が担ってしまったとはいえ、雲長と翼徳の勇に龍と鳳の智が加わるなど、曹孟徳でさえ厭うだろう。目障りと言ってもいい。公瑾は自らも気づかぬうちに表情を険しくしていた。
――あるいは、消滅。玄徳は未だ独り身で継嗣がない。もし大元を絶ったとしても誰かが遺志を継いで軍の瓦解を防ぐだろうが、士気はそれに影響を受け、鳳雛の智慧も存分な成果を揮えず、攻め入るに充分な好機となる。早期に実現できれば、孟徳も手を出すには難しかろう。
有力な将らの帰順が叶わずとも良い。一騎当千の武勇は非常に惜しく、龍鳳のめざましい才知も失われるには遺憾であるが、迎え入れた後に内側から突かれては意味がなくなってしまう。だからといって曹軍に走られてもそれはそれで厄介だ。
どうすれば、八方丸く収まるだろうか。公瑾は正面を見据えたまま歩を進めた。回廊を行くに従って顔の筋肉が強張り、床石を叩く足音が荒々しくなったが、そこに遠方からさざめき笑う軽やかな声が重なるようになった。
女の声だ。城内に響くほどとはと、公瑾はさらに表情を歪めて辺りを見やった。仕女であれば不躾であろう。だが、耳にした音はいやと言うほど馴染みがある。公瑾はその声を求めて回廊から庭へと降りた。
耳を澄ませて方角を探り、感づかれぬよう気を配る。そうして進んでいった結果、庭園の片隅にあった小さな四阿の内にいた人物たちが根元であることを突き止めたのだった。公瑾はそろりと近くの樹木に身を寄せて四阿を窺う。
尚香と孔明の顔が見えた。若々しい笑みでもって尚香が口を開いており、孔明はたおやかな微笑みでそれに受け答えている。姿はないが、声から察するに二喬も同席しているのだろう。ふとした瞬間に賑々しい笑い声が弾けた。あの中では年長だろう孔明も、そのときばかりは普段の様相ではなく、こころからの感情に身を任せている気がした。
思わず目を見張る。使者として、謀士として振る舞う平静の顔つきよりずっと――。
手を付いた幹のざらりとした感触が、まるで他人事のように思えた。見入っていた風景に、自らの感覚がそれほどまでに遠のいている、ということに至るまでもが鈍い。
羽扇で口元を隠したまま首を傾いだ孔明の視線が四阿の外に向く。その拍子に木陰の公瑾を発見すると、今までとは異なった薄い笑みを浮かべて尚香らに向き直った。
「――公瑾!」
尚香が立ち上がって手招いたので、仕方なしに四阿へ行く。入口で拱手し礼を取るも、許しがないので立ち入るまではしなかった。屋根の下を見れば、尚香と孔明の2人だけしかいない。他にも誰かがいたのではと問えば、孔明は苦笑して幼い姉妹は腹が空いたので軽食を求めて行ってしまったと教えた。
「盗み見に盗み聞きだなんて、公瑾はずいぶん趣味が悪くなりましたね」
「それは心外。表にまで渡るような慎みのない声が聞こえましたので」
「殿方とて城中で大声を張りますのに、差別ではありませんか?」
平然として言い返す孔明。常時そうではあるまいにと思いはするが、相手が彼女では平行線を辿りそうなのでやめた。
「尚香様」
「わかっています。公瑾の説教は聞き飽きました。……孔明殿、また話し相手になっていただけますか?」
「兄君様との接見が叶わぬ限りは暇を持て余す身ですので、いかようにも」
「ありがとうございます。私からも兄上にお願いしておきますね」
そうして尚香は孔明に一礼し、公瑾にはつんと顔を背けて城内へ戻ってしまった。見送った背にため息をこぼした公瑾の姿に、孔明はだいぶ嫌われておいでのようだと言い、軽やかな音を立てて笑った。
「兄君方に似て利発であられるように、私の小言を聞き流す術も同様に長けていらっしゃる。困ったものです」
「煩い殿方は嫌われますよ」
いつぞやの夜、似たようなことを言われた。それを思い出した公瑾は四阿の中に入り、円形の壁に沿って設えられた椅子へ腰を下ろした。朝服の袖を払い、笑みを収めた孔明と対面して座す。
途切れた会話の糸口は、かの宵から引き抜かれる。簪の話を持ち出すと、孔明の瞳がわずかに揺れたような気がした。
「一段落した話を蒸し返さずとも結構です。……そのような前置きなどせずともお伺いしましょう」
目元も涼やかに、がらりと孔明の纏う雰囲気が変わった。公瑾の胸中を冷たいものが満たす。
「……いったいあなたは、どこまでのことを見通していらっしゃるのか」
「さて。知らないことなら山のようにありますが」
冷めた双眸が公瑾の透った瞳を射抜く。無表情に近い彼の顔から読み取れることは皆無に等しかったが、平常を保つためによく見られることだと気づけばなんということもなかった。公瑾がそろりと口元に袖をあてがう。
「ご謙遜を」
「なにぶん、ひととの交わりを断っていた田舎者ですから。私に出来るのは、書などで学んだ先達の英知を、如何にうまく生かすかを考えるだけです」
「しかし、私が今考えていることなど、容易におわかりになりましょう?」
細めた公瑾の目線に、表情を消した孔明の手にある羽扇が映った。ぱたりぱたりと手のひらを叩く音は、四阿をよぎっていく風の音よりよく聞こえる。
膝上でひらりと舞わせた扇が微風を起こすと、孔明のやわらかな髪がそよぐ。やんわりと、けれど苦笑に近い顔になった彼女はわずかに首を傾げた。
「公瑾殿、私たちは友となったはず。あなたは友人の腹まで探るのですか」
「ご高名な伏龍先生に友と呼ばれるとは恐れ多い」
「私はそういった言葉遊びは好みません。世辞も嫌いです」
孔明は嘆息混じりに刺々しく言う。けれど公瑾は優雅に微笑などを刻んで眼を伏せるものだから、彼女はまたため息を、今度は肺を空にするほど長く深く落とした。
次の一手を決めかねているのか。端正な造りの顔を眺めながら、孔明は手首を捻って羽扇で風を起こした。
手を組んでも割れぬ腹がある。それは彼も同じだろう。並び立つことが出来ぬ相手へ手の内をあかすなど、この戦乱の世にあっては死にも等しい行為だ。
確実ではないが、ある程度なら彼の考えを読むことは出来る。繰り返してきた時間の中で蓄積されている記憶から、今後起こりうる事柄をいくつか引き出してみればよい。その点については容易といってもいいだろう。卑怯な気もするが、こればかりは仕方がない。……忘れてしまうほうが、悪いのだ。
孔明は情報を出す際には必要以上に気をつかい、状況に配慮し、ありうるだろう未来への不用意な発言は控えてきた。先走りも過ぎれば自らの足が掬われる。
どこまで出すか、どれだけ出せるか。孔明は自身の頭の中を深く探って考える。
「孔明」なら、どうするだろうか、と。
公瑾がゆっくりと瞼を持ち上げ、透った双つの瞳が現れるのを孔明は扇の陰から黙って眺めた。いつ出会うとも変わらぬ嫌味な性格は苦々しく思うが、彼の瞳の色は変わらず相応しいと思える。
変化する流れの中にある簡単な不易は、こころに巻きつく荊を少しだけ緩ませた。
「玄徳様がまだ仲謀殿と顔合わせをなさっておられませんけれど」
「そちらは日程の調整中です。他にも色々と案件が重なっておりまして」
「よもや、尚香様とのご婚儀を画策なさっているからではありませんよね?」
あきらかに眉根を寄せる孔明が、軽く目を見開かせた公瑾を覗き込んだ。
「龍の目と耳が九天を隅々まで掌握するのでは万夫不当の剛のものとて敵いません」
「戯言はよろしい。――尚香様ご本人の意思は? 国太様や仲謀殿の承認は? 主君の妹君を勝手に政の道具にするなど僭越が過ぎましょう」
孔明が怒気を纏ってすっくと立ち上がった。いつにない不快感を露わに吊り上げた眼で公瑾を睨む。
平らな表情でいた公瑾は、しばらくののちに口角を上げた。それがまた癇に障る。
「孟徳が付け入る隙を与えぬよう、同盟を磐石にし、より強固なものとすることに、なにゆえ尚香様が異議を唱えましょう。あの方も孫家の姫君としてのお立場を」
「立場がなんだというのです! ――私は反対です。玄徳様も、そのようなことはお望みになりますまい」
孔明は語気を荒げて言葉を放った。
美人局や暗殺など過去に起こったことへの懸念が残る。何より、尚香の人生が強制的に、他者の手によって定められてしまう。主家の血に連なるものとしての責務などという、くだらないことによって。
公瑾をねめつけながら、孔明はふんと鼻息を強く払った。
「ただでさえ逼迫している自軍の情勢を省みぬ徳義の大盤振る舞い。感服いたします」
「戦で犠牲になるのは自力で身を守るに難い老人や女子ども。尚香様とて例外ではありません」
大仰と取れるほど肩を上下させる孔明は、向かいの公瑾の表情に変化を見出せず、こころがまるで動いていないことを見て取ると、外套へふんだんに風をはらませて四阿を出た。
感情的になったところで彼の気持ちを動かすことなど出来ない。無知に等しく愚かでありながらも彼のこころに触れた花ならいざ知らず、――「孔明」は、まずもってこんなことをしない。
離れかけた四阿の影を踏みしめて孔明は立ち止まり、羽扇の柄を硬く握って胸に当てた。
目的を達するためになら平気でひとのこころに爪を立て、傷つけるに躊躇しない公瑾の昏いこころの根源は知っているけれど、それを癒せる手段も存在もすべては失せてしまっているのだ。
これ以上傍にいたら、尚香のみならず自身のこころも守れなくなってしまうような気がする。
「玄徳様がいらしたとき、私もともに帰ります。……尚香様の件はおよしなさいませ」
何事もなく運ぶとは思えないが、玄徳と合流して一緒に軍へ帰れば、心休まる場所で集中して今生の主と定めた彼のために采配を取ることができよう。
足下から伸びる自身の影を見つめ、振り返らずに孔明は言う。そしてそのまま庭を去った。
もはや、邂逅を果たして彼の為すことに感心していたばかりの娘ではないのだ。
執務室へ戻り、こなすべき案件を丁寧に片付けながらも、公瑾の脳裏では竹簡に起こされた文面とはまったく別のことを考え通しだった。波紋が止まぬまま、常に水面を乱しつづけている。
手を動かして筆を滑らせているさなかにも、どうしたものかと思い悩んだ。
孔明はまだこちらにあるが、士元であれば彼女の不在は不足なく埋められよう。同門であり縁戚であるならなおさらであり、臥龍と鳳数が並び立つという贅沢を玄徳が見逃すはずもない。烏合の衆にも等しい軍が江陵を落とした現実から目を逸らすわけにもいかぬ。
智慧を競うことが出来る存在に興味を持ってしまったのが運の尽きか。陸口で期を逸してしまったことを公瑾は今さらに悔いた。もっと早くに決断しておくべきだったのだ。
今からでも遅くはないか。公瑾は筆を置いて、薄暗くなった部屋に灯りを点した。じっと見た小さな炎の中に孔明の姿が浮かび上がる。
頼りなげな身なりをしながら、あの細腕と頭脳で勝利を拾い上げる。孟徳の追撃をかわし、あるいは受け止めながら、新野から江夏へ至った。民と軍に被害はあったが、玄徳軍が壊滅することはなかったのだから上出来だろう。最悪でも大将がいれば再起はできる。むしろ玄徳は身一つから始まったのだから二度がないとは言い切れぬ。そしてそこに名だたる賢人が2人も加わったのだから、かつてのごときと看過してしまうのは危険だろう。
地道に、けれど着実に力を付けていく。こういった類型が実は性質が悪い。目立たぬように、隠れて、こっそりと軍を強大にしていく。孔明なら必ずやるだろう。
今からでも打てる手はないだろうか。香りたつ衣を交わして公瑾は腕を組んだ。
子敬が取りかかっている荊州の問題も絡め、これを期にして玄徳の力を削ぐか、一息に畳み込んでしまえないだろうか。対峙する伏龍鳳雛をどう封じ込めるか、どうしたら彼らの手を絶てるか。公瑾はありとあらゆる角度から状況を追いかけ直し、様々な可能性を探った。
自己の昔日に哀しみ、他人の未来に憂う。そんな女を堕とすには――。
沈黙のうちに目を細め、小刻みに揺れる炎の先端を追いかけた。風も起こらぬ室内で一向に落ち着かないそれは、まるで治まる気配のないこの動乱の世を表しているかのように思える。
彼女の言っていた叶わぬ約束の相手が、玄徳だとしたら? あるいは、一方的なものであったとしたら?
頭の中に次から次へと予測と可能性が浮かんでくる。確定できる要素はないが、簪といい、尚香のことといい、平静な彼女のこころに大きな揺らぎが生じたことは確かだ。試してみる価値はあろう。
おもむろに燭台に顔を寄せた公瑾は、短く、けれども強めに息を吹きかけて炎を消した。
中原に広がる炎が孟徳であり、玄徳であり、季玉や寿成といった諸勢力であるなら、それを消す風雨は孫家であるべきだ。――そうでなければならない。
再び薄暗さに満たされた部屋で公瑾が小さく笑う。
降るものには逆らわぬよう戒めを、従わぬものには邪魔にならぬよう滅びを。
そうと定めた公瑾は、すぐ大気に溶けてしまうだろう微量の香りを振りまくようにして大きく袖を払って腕をほどくと、いつものように表情を沈めて執務室を出ていった。
玄徳が来るということは、公瑾からの言伝を預かったという衛兵からもたらされた。ひとと会うことを避けて篭もりがちになり、それでも仲謀への参見を侍女を挟んで子敬や子瑜に頼んでいるときのことだ。
赤壁からこの方、公瑾の言動に振り回されすぎだと感じていたので、ようやく解放されると思った孔明は安堵に胸を撫で下ろす。玄徳が来て同盟締結が明らかな形になり、ともに帰るとなれば、ようやっと元に戻れると思った。
孔明であることに落ち着ける。彼の志のために「孔明」が生きるのだ。
室内で格子から差し込むおぼろげな月光を眺めていた孔明は、薄闇の中でそろりと首を振って目を伏せた。簪をなくしたことはいい機会だったのかもしれない。あれは失って然るべきもの。記憶すら知らぬ内に消えていくのだから、形ある物品がいつまでも残るはずもない。
孔明は自嘲して、ゆっくりと扉を見た。茶の支度を頼んだ侍女はまだ戻ってこない。今日はずいぶん時間がかかっているなと思い、のんびりと持ち上げた手で頬をさすった。
この京城にいる間は暇があれば茶を頼んでいたので、もしや質の良い茶を飲み溜めしてやろうとしたさもしさが露見してしまっただろうか。孔明は軽く眉間を寄せて小さく唸った。玄徳軍ではなかなか出来ぬ贅沢だ。京城へ滞在することはそもそもが想定外であり、とりあえずは客なのだからこれくらいは持て成してもらってもいいだろうと思う。なかなか嗜好品にありつけぬ身の僻みなのかもしれないが。
あるいは夜分の我儘を叱られてしまっているのだろうか。そう考えた孔明が立ち上がり、上衣を羽織って扉に手を掛けたときだった。
「……何か御用でしょうか」
戸を開かぬまま色濃い影に向かって問い訪ねた。侍女にしては背丈がありすぎる。わざわざ正体を確かめるまでもない。
「遅くに申し訳ありません。玄徳殿が九江に見えられたと報せを受けましたので、ご連絡に」
「――玄徳様が!?」
風を起こして扉が勢いよく開くと、弾んだ声そのままのはじけた笑顔で孔明が顔を見せた。惜しげもなく、若々しい笑みを溢れさせて公瑾を見上げる。面食らって目を瞠った公瑾に気づき、孔明は軽挙を恥じて俯いた。
「も、申し訳ありません。失礼を」
玄徳と見えることがよほど嬉しいのだろうか。涼やかな笑みを返した公瑾は、孔明がとたんに落ち着きをなくしたのを見て苦笑をこぼす。
「明日にはこちらへ到着しましょう。――つきましては、少々ご相談したいことがあるのですが、よろしいですか?」
世間話を切り出すかのような気軽さで公瑾は尋ねるが、孔明は軽く眉間を寄せて黙りこんだ。いつでも閉じられるよう扉には手をつけたまま、警戒心を剥き出しにして公瑾を見やる。
その様子に眉尻を下げた公瑾は、小さなため息を落とした。
「ここで語るには憚ります」
「……わかりました」
孔明が身をずらして室内への通り道を空けると、公瑾は忍び入るように内へと滑り込んだ。
戸を閉めず、灯りをつけようとする彼女を制した公瑾が、ゆっくりと後ろ手に扉を閉ざす。そのかすかな音に肩を跳ねた孔明は、目を丸めて公瑾を振り返った。
「玄徳殿は天子がお認めになられた皇叔。尚香様が嫁がれるに問題はなく、むしろ光栄でありましょう。ただ、別の問題がありまして」
「まだそのような莫迦話をしていたのですか」
「ええ。そもそもこの同盟は玄徳軍からの申し出によって成立したもの。しかし、我らが下手に出ているのを良いことに、調子付いて勝手な真似をする」
「それは」
「――天下は孫呉にこそ帰すべきなのに、あなたも士元数殿も見誤った」
いま彼女が立っている場所からでは公瑾の顔色は判別し難い。それでも何故だか、彼の口元にうっすらと笑みが上っているのを感じ取れた。公瑾が一歩を踏み出したとき、そろりと、しかしあっという間に全身に鳥肌が立った。
いけない。孔明は瞬時にそう思ったが、逃げ道はなかった。唯一の出入り口は公瑾の背後にある。
公瑾が足を前に進めて近づけば、孔明は足裏を引きずって後退する。けれど、歩幅の違いによって間合いはひと息になくなってしまった。
上衣を捨ててなりふり構わず背を向けた孔明の腕を、公瑾の手が強く握り締める。乱暴に扱ったらすぐ折れてしまいそうな細さだ。
躍起になる前に腕を引かれ、よろめいた身体は公瑾に堅く抱きとめられた。掌で口を塞ぎ声も封じて捕らえた孔明の身体はひどく強張り、わずかにだが震えも感じられる。
「玄徳殿が無事に京城へ来られると良いですね」
床に落ちた上衣を踏みつけながら眼下の存在をうっそりと見やった公瑾は、髪がかかったままの耳元に唇を寄せてささやいた。
士元は無理だが、孔明ならどうだろうか。どうにかしてこの才覚を孫家悲願のため生かせぬか。――如何にして彼女のこころを揺らし、その隙をついて絡め取るか。
伯符存命時に陣門にあったならと思えるほど畏敬の念を抱いた女だが、敵対するのなら話は別だ。
恥辱に死して良し。堕ちるなら尚好し。いずれにしても仲謀軍に痛手はない。
孔明の首筋に這わせたまま、公瑾の薄い唇は不穏な下弦の月を描いた。
乱雑に裾を捌いて客殿へ向かう孔明の顔はいつになく強張り、色は青さを通しこりして白かった。身に残る痛みや異物感からわく嫌悪を押して回廊を進みゆく中、すれ違う侍女や下官は孔明の姿が過ぎたあと、あるいは遠巻きに姿を見やりながらささやきあう。袖で口元を隠すものの、内証話をしているのは明らかだ。視界の端々にそれらを見つけたが、構ってはいられぬと速度を落すことはなかった。陰口なぞ慣れている。
孔明の眼が、仲謀軍とは異なった武装の兵士を捕らえた。簡素な槍を持ち、部屋の出入り口の両脇に1名ずつ立っている。あれは誰の配下のものであろうか。
小さな沓音に兵のひとりが首を動かして近づいてくる孔明を見つけた。そして、素早く反対側を振り返って表情を引き締めた相棒と頷きあう。
わずかな興奮に胸を抑えた孔明は兵ににこりと笑って扉に手を触れた。――そのとき、だった。
「――っ」
入室を阻むように槍の柄が高らかな音を立てて目前で交差した。孔明は一瞬、何が起きたのかわからぬように息を呑む。
「あ、の、わが君が……玄徳様が、こちらにお見えになっていると」
「我々が取り次ぎますのでお待ちください」
ぴしゃりと厳しく言われてしまった孔明は、はあ、と言って扉から手を離す。立っていた場所から後ろへ下がり、眉尻を下げて肩を落とした。
あまりにも長く軍を離れすぎてしまっただろうか。軍全体が家族のようなあたたかい繋がりを持っていたのに、何だかひとりだけ疎外されている気分だ。居た堪れぬ空気すら覚える感に、孔明は足下を見つめながら上衣の襟を指先で撫でた。玄徳軍に身を置いた期間は短いけれど、孟徳軍を退けたことで多少は認めてもらえていたと、――そう思っていたのは自惚れだったのか。
淋しく立ち尽くしていると内側から扉が開かれて雲長が顔を見せた。軍を離れる以前と同様、感情に乏しそうな無表情で孔明を迎える。
「雲長殿がご一緒だったのですか」
「俺だと都合が悪いか?」
まるで幼子のようにふるりと孔明が首を振ったのを見て微笑した雲長は、身をずらして室内への通り道を開く。険しい顔のままの兵へちらと目礼してから彼女が中へ入ると、すぐに背後は閉じられた。
「周公瑾に先手を打たれたようだぞ」
雲長のつぶやきで後ろを振り返ると、大きく見開いた孔明の眼には彼の平坦な表情が映し出された。入口には障屏があるので玄徳の姿はまだなく、2人の姿も玄徳には見えていない。
唇をわななかせる孔明を見下ろしながら、雲長は軽く彼女の背を叩いた。
「委細は玄兄と話せ」
よろめくように障屏を避けて奥へ行くと、台座にあった玄徳が孔明の姿を見とめてすぐ腰を浮かせた。晴れやかとは言い難いが、軍師との再会に安堵したようなものはある。
「わが君におかれましてはご壮健で何よりにございます。長らくお傍を離れましたこと、どうぞお許しください」
「顔を上げてくれ。お前にはひどく世話をかけたのだから、謝るのは俺のほうだ」
玄徳が手を伸ばし、膝をつきかけた孔明の腕を取る。と、そのとき、玄徳の手にちらと白いものが見えた。孔明は咄嗟にその手をつかむ。
「……これは、いったい?」
「ああ、……なんでもない。気にするな」
「殿。ここは荊州ではありません」
手を堅く握ったまま、孔明は玄徳を見据える。しばらくして、その視線が弱まることがないことを悟ると、玄徳はため息をついて孔明の手を解きにかかった。
「昨夜だ。ずいぶんな手練だったが、この程度で済んだ」
「士元殿の言うとおりにしておけばよかったんです。俺がいれば傷すら負わせなかった」
「さすがに、寝所に男2人というのはなぁ」
「冗談を言ってる場合ですか」
顰め面の義弟に玄徳は苦笑したが、孔明はそんな遣り取りのうちにその場に崩れ落ちた。玄徳があわてて片膝を折る。肩を取って何度か字を呼んだが、彼女は呆けたように床を見つめ続けた。
「孔明。俺はこのとおり無事だ。だからお前は、自分のことを考えろ」
「……え?」
焦点の合わぬ目が震えながら玄徳に向けられた。今度は彼が呆然としている孔明を見、顔つきを厳しくする。
玄徳が言うには、此度の京城への招きは、玄徳と仲謀が直に今後の方針を協議することが目的であると書簡にはあった。確かに、玄徳は仲謀と面談したことはないので必要ではあろう。だが、それとは別にもう1件、気になる案件が記されていた。
「お前が江東に、――孫仲謀の元に残留するということ、それは事実なのか」
「な……に、を」
「南郡はおろか、江陵にもすでに流布している。諸葛孔明は周公瑾に誑かされ、劉玄徳を捨てたのだと。或いは、もとよりそのつもりで江東への使者を買って出たのだと」
使者として江東へ向かった諸葛孔明が周公瑾に絆され、掌を返したらしい。
そんな風聞が玄徳軍の中枢の耳に入ったのは、仲謀からの使者が玄徳のもとを訪れたその日のことだ。江陵を始めとし、勢力下において短い荊州南部にも知らぬものはないほど広まっていた。
――孔明は二度と荊州には戻らぬのではないか。周公瑾と手を携えて玄徳軍と相対するのではないか。大元が判別出来ぬほど尾ひれのついた内容が流布し、玄徳軍の士気は公瑾を出し抜いて江陵を得たというのにこれ以上ないほど落ち込み、軍師を辱めた公瑾への憤怒や玄徳を裏切った孔明への怨嗟に満ち満ちた。
士元は絶対にありえないと笑い飛ばし、よからぬ噂に流されぬよう、幹部を通じてよくよく言い聞かせているので面と向かって孔明を非難するものはいないけれど、中傷の歯止めにはならず、効果のほどは薄いかも知れぬと苦虫を噛み潰したかのような顔で玄徳は言った。
「そ、んな、こと……」
孔明はぎこちなく首を振って、ようやくそれだけを告げた。
わかっていると言外に示し、玄徳がそれに力強く頷く。
「どうする。いや、お前はどうしたい?」
玄徳は急速に冷たくなった孔明の手を取ったまま問うた。
孟徳軍が篭もっているとはいえ、仲謀軍と事を構えることは出来るだけ避けたい。さらに両者に手を組まれてしまえば、玄徳軍は為す術を見出せず滅び行く限りだ。
すっかり黙り込んだ孔明に、玄徳は苦渋の表情ですまないと一言詫びた。
「もっと早く迎えに来るべきだった」
「いいえ……、いいえ、私が、私がもっと……」
孟徳の南下に対して仲謀軍に同盟の申し入れをと進言したのは孔明であり、その役目を自ら請け負って江東へ向かった。予定調和とは言わないが、それは玄徳が基盤を得て中原へ進むための踏むべき手順のひとつのようなものだった。
だから、いつものようにこなせると、そう思っていたのだ。公瑾に帰路を阻まれるまでは。
孔明は弱弱しく玄徳の手を握り返して傷痕の多い甲を見つめた。
本物が在れば、こんな苦労を負わせることもなかったろうに。――師匠ならば、こんなミスはしなかっただろうに、すぐさまその失敗を補うべく上策を練れたろうに。
「すみ、ません。ごめ、ん、なさい……」
玄徳の手を額に押し頂いて孔明は泣いた。そろりと涙が頬を滑る。
目的のために手段を選ばぬ公瑾の性質を、伯符の願いを是が非でも叶えんとする昏くも強固な意志を失念し、自らの怠慢と慢心、そして迂闊さが重なったゆえに招いた結果がこれだ。孔明なら、こんな手は読めたはずだ。剣を振るう力はなくとも、主君を危険に晒すことなく、また自身を守ることなどたやすかったろうに。
――本物の「孔明」なれば。
「泣いている今を惜しめ、孔明」
「雲長」
「ここが荊州でないと言ったのは孔明です。猶予などないのは玄兄もわかっているでしょう」
「そうだが、しかし」
気遣わしげに孔明の泣き顔と、腕を組んで厳しい視線を投げかけている雲長を、玄徳は彼女と手を合わせたまま交互に見やる。
世を離れていた彼女を乱世へと引き出したのは己だ。三度草庵を訪ね、重い腰を上げさせた。女性と知りつつもその才に助力を請い、彼女はそれを引き受けてくれた。
忘れてはならぬ。仕官するということがどういうことであるのかを。
眦に涙を溜めた孔明が、厳めしく傍に立つ雲長を見上げた。孔明よりも先んじてこの世界の流れに囚われているひとの、逃げることの出来ぬ、――逃げ出すことを許されぬ世界に身を投じたことの責任を、彼は無言に問いかけている。
嫌ならば関わらなければよかったのだ。必ず玄徳軍に馳せ参じる彼は過去に幾度かそれを勧めてくれたことがあった。疲れたと弱音を吐いたとき、戦火から遠ざけてくれたこともあった。そうして心身を休ませることも無駄ではないと。――そうしていたわってくれた雲長は、やはり玄徳の下で峻烈な人生を送ることを選んだのだけれど。
「孔明……」
肩を撫で、慰める玄徳の傍ら、逸らすことを許さぬ雲長の眼差しに、孔明は歪な笑みを浮かべた。目線を玄徳に戻し、あたたかな手に血の気の引いた自身の手を重ねて小さく微笑む。
ぐいと袖で涙を拭い、玄徳の手を借りて立ち上がった孔明は、大きく息を吸い、静かにそれを吐き出した。ひとたび目を閉じ、気を落ち着けて眼を開く。凛凛しさを携え、まっすぐに玄徳の双眸を射抜くやわらかい色の瞳は、かの庵の前で粉骨砕身して仕えることを誓ったときの清冽さを玄徳に思い出させた。
背筋を伸ばして居住まいを正した孔明は、まだ不安の残る眼差しを寄越す玄徳に頭を垂れ、醜状を晒した詫びを述べた。
「すべては私の油断によるもの。公瑾殿を甘く見すぎた失態にて招いた此度の咎めは如何様にもお受けいたします」
「俺はお前を罰するつもりはないぞ。これは俺たちの罪でもある」
「殿にまで罪が及ぶのであれば、私などは腹を切っても済まされますまい。それこそ皆様にお叱りを受けます」
孔明が苦笑して雲長を見ると、彼は目を眇めただけで返答はしなかった。
「軍師殿は、どう手を打つつもりか」
「一介の書生に礼を尽くしてくださった玄徳様の御為に、私が出来ることをいたします」
政でも戦さでも、女人の台頭はよく思われない時代だからとも言い切れないが、男性の力には太刀打ちできぬのに、負け伏すと悪く言われるのだからたまったものではない。生きにくい世の中ですねと、孔明は苦く笑った。
彼女の言葉の意図が掴めぬ玄徳が首を傾げる。さらに雲長が眉間に皺を寄せたとき、孔明は昨夜のことを、言葉を濁すことなく告げた。
尚香との政略婚、仄めかされた玄徳暗殺、そして、力ずくの暴行。
語る間、孔明の表情こそ変わらず真剣であったが、合わせた袖の内側では強く残された擦り傷の跡に爪を立てていた。
彼女が話し終えたとばかりに口を噤む。すると、玄徳は無表情のまま素早く身を翻して座に置いてあった刀剣を手にした。しかし、身を返して部屋を出ようとするところを、孔明が両手を広げて空間を遮った。
「短慮はなりません。たかが女1人のために兵を挙げるなど愚かしい。殿は何のためにこちらへ来たのです? 殿を慕って艱難をわかっていながらついてきた民たちに要らぬ辛苦を負わせるのですか」
「しかし!」
「本拠を得るまで、仲謀軍とは手を携えるべきです。それがたとえ一時のことであれ、孟徳軍への牽制となりましょう。――くだらぬことで時を浪費し、曹丞相を喜ばせるなど愚の骨頂」
いっそ冷厳なまでの視線が玄徳のやさしい感情を追い詰める。唇を噛み、拳を握って行き所のない怒りを堪える主の姿に、孔明は眉尻を下げて微笑した。
「私がおらずとも士元殿がお傍にあるのなら、殿の大望が潰えることはないでしょう。……わが君。大儀の前の小儀に惑わされてはなりません。庵で私に説いてくださったあの熱意をお忘れくださいますな」
刀剣を掴む、血管の浮き出た玄徳の手に、孔明が静かに袖を重ねた。
玄徳の苦悶を、もったいなく、そしてありがたいと思う。けれど彼のこころは個人にでなく、戦乱に明け暮れる世に恐れおののきながらも懸命に生きている民たちへ向けられるべきだ。それはきっと「孔明」も望んでいたことだったろう。
戦をなくし、誰もが明日に希望を持てる平らかな世に。
震える呼気を宥めるよう、孔明は玄徳の肩を撫でる。それは母親が頑是無い子を諭すかのような風情でもあった。
「……策は、あるのか」
「急いで考えます。……下策になるやも知れませんが、殿の身の保全は確約いたしましょう」
「孔明……!」
「あなたが作る平和な世を見たいのです。……玄徳様。私の願いを、どうか叶えてくださいませ」
荒れたかぼそい手を重ね、孔明が淑やかに微笑んだ。それは精一杯の虚勢にも見える。危うさを秘めた儚い笑顔は、滅多に表情を変化させることのない雲長の顔をもひどく曇らせた。
半瞬ののちに、孔明は真顔になって瞳をきらめかせる。
「さ、会見のお支度を。私も準備してまいります」
深憂を現したままの玄徳に拱手した孔明は、すばやく踵を返して部屋を出た。
冷たい視線を投げかける兵らに目礼し、その場を足早に離れる。しかし幾許も進まぬうちに、背後から追ってきた雲長に呼び止められた。
「花」
孔明は振り向き様に、あまりにも懐かしい響きを発した雲長から顔を逸らしてゆっくりと目を伏せた。
永き時間の廻りにも失われぬ唯一のそれは、けして許されぬ咎人の名。いずれ彼の内からも消え去るだろうと思っていたのに、その気配がまるでないのは、犯した罪の重さを知らしめるためであろうか。
たっぷりと時間をかけて孔明が動き出す。足下から宙をたどり目線を上げて雲長を見返した。
「約束は守ります。……でも、頑張っても駄目だったときは、許してくださいね」
「花」
「お説教はまたの機会に。今は急ぎますので」
ぺこりと頭を下げた孔明は、そそくさと逃げるように走り出した。その背を消えるまで見つめた雲長は、ため息をひとつだけこぼして身を翻した。これほどまでに彼女という存在を遠くに感じたことはなかった。
けれど、一度だけ振り返って彼女が去った方角を見やる。
無垢であり、無知であった「花」は、――もうどこにも見えなかった。