対都督の花孔明。
花孔明が都督に嫁いだ理由、みたいな感じの内容。(感じってお前……)
長くなってしまったので分けました。
――どこで何を過ったのか。
闇に染まった天に月は輝き星が煌くものの、孔明は回廊の階に座ってあらぬ虚空を見つめた。わずかに感じる涼風は前髪をかすかに揺らす。
何が起きている。こんなことは今まで一度もなかった。野に在ろうがなかろうが、必ず起こる事象はいくつかある。完璧なまでに同じ行程を辿ることがあれば、異なった過程を経て至る場合もあった。回避することも、あえて通ることも自らの意志で選べた。それはこの閉じられた世界に対するささやかな反抗のようなものだ。駒だからとて何もすべてに従わなければならぬものではない。こころは何にも縛られぬ。取捨選択は己のこころによるもの。
だから、玄徳に仕え、陸口にて孟徳と当たることは自身の献策によって進み始めた道のひとつ。少なくとも孔明はそう思っている。
それらの考えすら定められているものだとしたら、もはや糸に吊られたあやつり人形だ。空っぽの器にものを考えるこころなど不要。
火照った頬に手を当てて彼女はため息をつく。その吐息には強く意識せずとも酒気が帯びていた。
何かを少しずつ外していっているような、漠然とした不安が背後から忍び寄ってきているような、そんな感覚すら初めてのことだ。孔明は軽く眉根を寄せた。
陸口ではうまくやれていたと思う。監視の目を逃れて天幕を抜け出し、陣中見舞いに訪れた玄徳と会うことも叶ったのだから、幾つかは先手を打つことができていた。
連環の計が功を成し、劉孫の両軍で曹軍を追い詰めるところまでは流れの通りだったのだけれど、そこからはまるで手の施しようがなかった。
出陣に賑わう陸口の陣から、孔明は逃げ出すことができなかった。あてがわれた天幕には1分隊が置かれて行動を戒められた。この非常時に、同盟相手の一軍師に人員を割くなど馬鹿げていると思わず口に出してしまったが、非常時だからこそ何が起こるかわからないと厳つい分隊長に天幕周辺を固められてしまったのだ。この期を逃せば玄徳軍との合流が難しくなってしまうと、焦燥を覚えた孔明はあらゆる手段を講じたが一切合切を却下され、公瑾が陣に戻ってくるまでその場に押し留められることを余儀なくされてしまった。
――――そして、事此処に至る。結局、同盟締結を盾に取られて京城まで来ざるを得なかった。
頬を撫で、顎を摩って孔明は再び酒気交じりの息をつく。広間やそこに面した庭先にいる将兵のように浴びるほど飲める性質ではない。杯を空ける間もなく酒を注がれるのだ、嗜む程度の人間ではあっというまに酔い潰されるのが関の山である。酔っ払い相手につまらぬ言い訳をし、孔明はほうほうの態で広間を抜け出してきたばかりだった。
心臓が直接肉を叩いているようだ。全身が力強く脈打って、体内を駆け巡る血液がすべて酒になってしまった気分すらする。孔明は欄干に寄りかかってその冷たさに細く長い息を吐いた。
「孔明殿……?」
気配にまるで気づかなかった。ゆっくり首を回すと、官服の袖を翻して公瑾が近づいてきた。すぐ側で佇んだ彼は首を傾げて彼女を見下ろす。
「どうかなさいましたか」
「酔いを、醒ましているだけです。どうぞお気遣いなく」
首裏を撫でて息をついた孔明は顔を庭に向けた。月光に照らされる草木は季節にそぐわずどこか寒々しい。この景色を見たような感じを受けたが、直後に気のせいだと思い直す。何にも既視感を覚えるなど悪い癖だ。
背後の人物が立ち去る気を見せぬので、孔明はわざとらしいため息をついて公瑾を振り仰いだ。
「広間へお戻りなさいませ。私のことは構わなくて結構ですから」
「そうもいきません。功労者をこの場に捨て置くなど」
「本人がいいと言っているのです。しつこい男は嫌われますよ」
「嫌われて困る相手がおりませんので」
「ああそうですか」
相変わらず嫌味な男だ。嘆息して孔明は吐き捨てた。そしておもむろに立ち上がってその場を去ろうと踵を返した刹那、目の前の景色が傾いた。よろめいた肩が壁につく。
「大丈夫ですか?」
「……酔っているだけです」
「部屋までお送りしましょう」
公瑾の手がそろりと腕に添うと、彼女の酒精にまどろみを帯びた双眸が彼を厳しく見つめ返す。
「いりません。ひとりで歩けますから、放っておいてください」
「その様では無事たどり着けるかも怪しいでしょうに」
「壁を伝っていけば平気でしょう」
「足元もおぼつかないひとが何を言って」
「美周郎ともあろう御方が年増に構うだなんてああ恐ろしい。広間であなたをお待ちになっている女人方に睨み殺されてしまう」
腕をつかんだ公瑾の秀麗な表情がしかめられたのを見て、孔明はそこへ冷笑を重ねた。紅など刷いたことのない唇を歪め、ふんと鼻を鳴らして半身を返す。
「しかしあなたにとってみれば自ら手を下すか、他人にやらせるかの違いしかありませんかしら」
とたんに公瑾の眼が細まった。戦場であらわすような鋭利な視線に、けれど孔明はさらに袖で口元を覆い隠して笑ってみせる。
しばし互いに口を閉ざして目線を交わした。静穏な宵に立つ音は自然の風と、遠く広間から聞こえる騒ぎ声。それらは2人の狭間に落ちる沈黙を乱すには至らない。
孔明は笑みを引いて冴え冴えとした顔つきで、開いているのか閉じているのかわからぬ公瑾の眼を追った。
凝視している内に目線が戻ると、今度は公瑾が口角を上げる。
「孟徳が河北へ引いたとて油断はなりません。今はまだ両軍で逆賊を追いつめるが上策かと」
「荊北への進軍理由になりますものね」
「……先刻仰られたことを成すのなら、こんな馴れ合いはしませんよ」
そう言って表情を消した公瑾は、孔明の二の腕を強くつかんだ。衣を経てしてなお細いそこは軽軽と掌握できる。
痛みに目を眇めた孔明は力のままにその手を払い退けた。
「あ――」
その拍子に、彼女の後頭部から簪がするりと抜け落ちた。小さな悲鳴を上げて回廊から滑り、階を転がって地面へと落ちていく。意識が逸らされたそれを公瑾は憎憎しげに眺めやったが、ため息にも似た吐息をこぼした。簪を拾ってやろうと身体の向きを変えた瞬間、微動だにしなかった孔明は弾かれたように駆けだした。
「駄目……っ」
公瑾を押し退けて転がるように庭へ降りた孔明は土埃にまみれたそれを取り上げたが、しばらくしたのちにその場へ尻をついて座り込んだ。
先端に付いていた飾りの玉が無惨に割れている。柄に残っていた部分に触れたなら、それは呆気なく落ちた。未練などまるでないとでもいうように。
真っ白になった頭から言葉と言う言葉が失われたが如く、口は開くが喉からは何も出てこない。手の震えが全身へと緩やかに伝わっていく。飾りは膝にこぼれ、掌にあるのはただの棒切れと成り果てた。
項垂れつづける孔明の肩が力なく落ちた。その後ろ姿を眺めていた公瑾は足下にあった玉の欠片を拾い上げて眉根を顰めたが、やがて階を降りて彼女の側へ近寄り片膝を折る。呆然とした横顔に目をやって割れた玉の半分を彼女の手にそっと置いた。
「よろしければ、細工師をご紹介しますが」
「……いいです」
そのまま空気に溶けてしまいそうなか細い声に公瑾は片眉が跳ねあげたが、その直後にゆっくりと眼が開かれていった。
生気を失った孔明の眦からほろりほろりと涙が滑り落ちる。手のひらの棒切れを凝視したまま彼女は薄く開いたままの口から大きく息を吸った。
「約束は、叶わないから、……もう、いいの」
のんびりと時間をかけて孔明は傍らにいる男の顔を見上げた。無表情のまま大いに潤ませた瞳に見返されて公瑾は思わず息を呑む。
「何か、謂われのある品だったのですか?」
「そんな、大層な、ものじゃ……」
ぎこちなく首を振る孔明は、公瑾の透った眼差しを見つめ返した次の瞬間にくしゃりと顔を歪めた。大粒の涙をこぼしてしゃくりあげ、割れた玉と何もなくなった柄を握りしめた手でとめどない滴を拭う。
童女のような仕草に公瑾の口からはため息が出る。大きな声こそ出してはいないが、この状況では公瑾への疑惑がかかっても不思議はない。
彼は顔をこする孔明の腕を止め、懐から取り出した手巾で塗れた頬や目元を拭ってやった。それから腕をつかんで彼女に立つよう促す。今度は幼子に接するよう加減を間違えずに気を配って。
「泣くのなら部屋で、独りになってからになさい」
「泣い、て、ま、せんっ」
「……何と面倒なひとなのか」
「お、おさ、け、の、所為、です!」
声高に叫んだ孔明は身を捩り、腕を大仰に振って公瑾の手を払った。そしてその勢いのまま身体を転じたのだが、存在を忘れた階へ足を強かに打ちつけて転倒し、回廊に伏した彼女はそのまま動かなくなった。
駄々をこねる幼児のような真似をしてくれる。公瑾は深深とため息を吐いて額を押さえた。このまま見ぬ振りをして広間へ戻ってしまいたい気分だが、同盟軍の使者という身分のある人間を放るわけにもいかない。――否、それでも酔っ払いが相手だったのだから恐らく構わないのだろうけれど。
無意識に渋る足をどうにか進めて孔明の元に向かった。脇をさらい、いささか引きずるようにして助け起こして回廊へ立たせる。あちこちが埃で汚れていたが、それは公瑾の知るところではない。礼のひとつも言わず、俯き、小刻みに震える唇を噛み締めた孔明の顔が再び泣きの涙でしとどになった。
「未、練、……じゃ、な……」
「……孔明殿?」
「思、い、出、……だけ……だって、……い……じゃ……!」
苦痛を伴う声音だと思った。知れず公瑾の目が眇められる。
使い物にならなくなった柄を強く握りしめ、涙滂沱たる顔を隠しもしない。これが伏龍と、――掌中に在れば天下を制するとまで謳われた存在なのかと思うと腹立たしさを覚え、所詮は女かと呆れもする。
左右に揺れだした孔明の身体を強引に壁際の隅へと押しやった公瑾は、その前に陣取って彼女の身をとりあえず隠した。まったくもって面倒なものを捕まえてしまった。あのまま声をかけず、通り過ぎて広間へ行っていたらと思えども、逸らすことのできぬ現実は目の前に確りとある。尽きぬはため息ばかりだ。
回廊の左右を見遣って人影を探す。あわよくば押し付けてしまおうと考えての行動だったが、その不届きな理由が災いしたかのように女官のひとりも見つけられなかった。
いい加減にしてほしい。しゃくり泣きが知らぬ間に途絶えたことを不審にも思わず、苛立ちそのままに視線を戻したそのとき、ぐらりと孔明の身体がまっすぐに倒れてきた。唐突ながらも咄嗟に腕を伸ばして彼女を受け止める。また回廊へと倒れこんだら助けるのが億劫になって放置してしまうだろう己のこころを慮っての行為だった、のだけれど。
糸の切れた人形のように突然眠ってしまった孔明を抱き止めた公瑾は強く眉根を寄せ、これら一連のやりとりを唯一知りつつもただひたすら静寂を貫いた天を恨みがましく仰いだ。
眠りについた孔明を、公瑾は女人の使者へあてがわれた奥棟の部屋でなく自室につれていった。両腕ごと塞がっているので灯りはつけられなかったが、ものともせずに暗闇に沈む部屋の最奥へと突き進んで彼女を寝台に降ろした。泥に汚れた上衣を剥ぎ、脱がせた沓を床へ放り捨て、砂や埃を払ってから身体の下敷きになっていた薄い上掛けを抜き取ってかけてやる。そこまでしてから自身も寝台の端へ腰を下ろし、小さな寝息を立てている孔明をちらと振り返って大きなため息を吐いた。今更とばかりに顔を覆って疲れたように脱力する。何をやっているのだかと自問するが答えはすぐに見つからなかった。
繋ぎの部屋の扉と寝台の間を遮る障屏を眺めるともなしに見つめ、公瑾は腿に肘をついてわずかに身を前に倒した。
本当に何をやっているのだろう。
彼女は邪魔でしかなかったのだ。城で、陸口で、そのことを厭というほど感じたではないか。
間を置かずしてふきかけた陣中での様々な問題をいとも容易に片付け、彼女自身が思い、そして両軍が望んだ結果を常に期待よりも良き状態でもたらした。離さず手にしていた白羽扇を翻し、万単位の人間と自然を相手取って、さも当然とばかりに勝利を収めた。肝心の孟徳こそ討ち損なったものの、受けた痛手の建て直しにさしもの曹軍も時間がかかり、しばらく南下は出来まい。成果としては上々だろう。
しかし。公瑾は上体を起こして再び背後を振り返る。
この存在は危険だ。曹軍に在ったなら、先の戦さは、あるいは孟徳の大勝利となっていたかもしれず、現在は誼みがあるとはいえ、玄徳の元に在るなら今後孫呉が潰される可能性は絶無といえぬ。もし漢朝復興を成し遂げ、玄徳や幼い帝が許したとても、彼女は、――彼女だけは認めないだろう。仲謀の手足をもいで二度と立ち上がれぬよう手を打てと進言し、逆に玄徳がそれを認めるように仕向けるだろう。孫家による皇室匡輔が建前であることなどとうに見抜いているだろうから。
闇に慣れた冷たい眼差しは孔明の寝顔を厳しく見据える。
遅きに失し、崩壊寸前にまで堕ちた王朝に望みをつなぐなど愚かだ。かつて隆盛を極めて今や神とまでされる王や皇帝のいずれも時の流れとともに朽ちて儚くなり、築き上げたものは必ず潰えてきた。ひとの生命と同様、永遠につづくものなどない。
公瑾は腕を伸ばし、袖口から現れた指先を孔明の喉元に触れさせた。首筋を撫でるように指の腹で生白い肌をたどって手のひらを広げ、常態より早かろう脈を感じながら喉を覆った。くすぐったかったのか、童子がむずかるように微動したが、瞼が開くことはなかった。
つい先刻まで己の命の危うきを知りてなお不敵であったというのに、こんな無防備な姿を晒すなど考えられぬ。警戒心が薄いとか、酒に酔っているからとも思い難い。
江東へ渡る以前から覚悟を決め、もはや無きものと悟っているのか、さもなくばよほどの愚者か。
孔明を、伏龍とてたかが女と侮る臣は多い。陸口で鮮やかといえる策を目の当たりにした将兵でさえ、やはり孔明の女という性ゆえに見下しているものも少なくない。
確かに女という部分はあろう。それは摂理というものだ。
けれども、先を見、裏をかき、これぞというところで相手の足下を掬う。陸口での智慧比べは今までにない昂揚感があった。先を読み、裏を察して相手の策を封じる。一手でも誤れば己が追い落とされるあの遣り取りの何と痛快であったことか。
公瑾は手の内に脈動を感じながら、かすかに力を込める。呼吸はまったく乱れない。あどけないような孔明の寝顔をまっすぐ目にしたまま、公瑾は静かに息を吸う。
これは、害毒だ。ひとたび戒めを放てば必ずや咆哮をあげて大地を呑みくだそう。曹孟徳の野心が潰え、伯符との夢であった孫家の中原制覇が夢の屑と成り果てたのち高らかに笑うのは、孔明が主、劉玄徳ひとりである。
そうなる前に今いっそ、この場で――。
公瑾は座り直して寝台の上に身を乗り上げ、当てたままの手に空いていた片手をやさしく添えた。
睫に滲み出した涙を乗せても眠りの深い孔明は浅い呼吸を繰り返している。
ゆるく固めた拳の中の簪が目に付いた公瑾は、深く息を吸い、時間をかけてそれを吐き出した。
壊れて使いものにならなくなった我楽多を見咎め、そろりと手を引く。代わりに両の拳を引き上げ、まずは銀の柄を抜き取り、それからもう片一方の体温が移った玉の屑を彼女の手から取り上げた。
「ごめ……さ、い……」
何もなくなったことを無意識にも感じ取った孔明に軽く指先を握られたが、公瑾は無感動にそれを眺めたのちに腕を引いて彼女から離れた。
寝台を去り、障屏の反対側へ行ってから取り上げたものを見直した。衝動的だった孔明を見たのははじめてだ。これはきっと明くることなき闇を知るやもしれぬ彼女の瞳を揺るがし、こころを占めていたもの。
公瑾は広げた手巾でそれらを包み、今一度障屏を越えて床にあった上衣を拾って屏に掛け、寝台の傍に沓を揃え置いてから背を向けた。
部屋を出ると、回廊にひとりの女官が控えていた。仕える、ということを良く理解している古参のものだ。膝をついて無言のままでいる彼女に、公瑾は丸めた手巾を放る。
「捨てておけ」
浅く頭を垂れた侍女の姿を目の端に映した公瑾は、そのまま優美に身を翻した。
首筋にまとわりついた髪の小さな刺激で睡魔が緩やかに後退していく。薄い光が瞼に明かりをもたらし、夜が遠ざかって久しいことを脳が認識してからようやく彼女は目を開けた。枕に頭を乗せたまま、鈍い動きで頭部に手をやり意識の活性を強引に促す。それからややあって上体を起こし上げた。
わずかに頭痛がする。二日酔いというほどではないが、酒に因るところはあるだろう。呼気からは未だ酒の匂いが感じられた。身体を起こしたもののいくぶんかの眠気は残っている。結ったままの髪を解いて乱雑に掻き混ぜた孔明は、軽く頬を叩いてより明確な覚醒を自身に促した。
側机にあった水差しから冷えた水を一気に含む。頭に、身体にその冷たさが浸透していく様を静かに感じてから今一度両手で頭部を揉み解した。
「よし」
ぴしゃりと頬を挟み、強めに髪をまとめあげてから寝台を降りる。
しかし沓を履き、立ち上がったところで違和感を覚えた。見たことのない障屏に、覚えの薄い香の匂い。簡素ながらも洗練された調度の数々。
孔明は途端に眉根を顰めた。顎を摘み、中空を睨んで記憶を探りだしてわずか、細めていた目を大きく見開いて手のひらを眺め、そののちに勢い良く寝台を振り返る。
「――ない」
握っていたはずの簪がない。さっと孔明の顔から血の気が引いた。寝具をひっくり返し、袖を乱暴に払い、床に頭をつけて寝台の下を覗き込んだ。それからもう一度、寝台に昇って敷布を隅々まで撫でて探したが欠片も見つからなかった。
乱した寝具の上に座り込み、唇を噛みながら指先でこめかみを圧迫する。
落として壊した。それを公瑾が拾い上げるより先に自ら手にしたことは覚えている。思い出すだけでひどく哀しい思いが湧いてくるけれど、今はそれに浸るほど気持ちに余裕がなくなっていた。
(その、あとは――?)
何もなくなった両手を頭にやり、髪の中に指を差し込んだ。孔明は硬く目を瞑って歯を食いしばり、昨夜の行動を反芻するが、何度となく繰り返しても同じ場面で、壊れた簪を拾ったあたりから霞がかってしまう。
いくらあのとき投げやりな気分になったからといって、記憶まで放らなくてもいいではないか。
彼女は顔を強ばらせて上衣に袖を通しながら部屋を退出し、雑に裾を乱して早足で公瑾の執務室へと向かう。入口にいた衛兵に小さく頭を下げてから公瑾が在所を問うた。
「只今は軍議中で、しばらくお戻りにはなられません」
「そうですか。……お帰りになられたら、私が参りました旨を公瑾殿へお知らせいただけませんか。お訊ねしたいことがあると」
「了解いたしました」
今度は深く腰を折って丁寧に頼むと、孔明は扉を一瞥してから来た道を戻ることにした。
いちおう昨夜の現場も再確認しておこうと思い立って庭をよぎる。何かしら思い出すかもしれないし、もしかしたら欠片でも残されているかも知れないという淡い希望が湧くけれど、次の瞬間にはそんな都合のいいことなどあるものかと考えを打ち切った。
そして案の定、すでに掃き清められたあとなのか、落ち葉の一枚も見当たらなかった。腰を曲げて階の陰なども見てみるが無駄な石ころのひとつもない。起床時間が遅かったのだからそれも当然と、孔明が肩を竦めて庭を切なく眺めたときだった。
「おはようございます、孔明殿。酔いは醒めましたか?」
呼ばれて振り返ると、大判の紙束を小脇に抱えた公瑾が立っていた。ぱっと孔明の表情が明るく変わるのを見た公瑾は軽く目を見張る。
「……おはようございます。昨夜は大変失礼しました」
朝と言うには遅すぎる時刻だ。早速の嫌味に孔明は口端を引き攣らせたが、公瑾の表情は穏やかなものだった。
「軍議は終わりましたか」
「これから諸将と合議です」
「……あの、公瑾殿。少しだけお時間をいただいても?」
明確な返答をせず、公瑾が目線だけで問いかける。内容は言わずとも知れるということなのか。幾分の躊躇を経て、孔明はまっすぐに彼の双眸を仰いだ。
「簪を、知りませんか?」
眉尻を下げ、些少ながらも困惑を浮かせて小首を傾いだ孔明に、公瑾はゆっくり目を眇めた。
先の戦中では一切見せなかった顔つきは個人的なものと見て取って良いのだろう。機智奇策をもって曹軍を翻弄せしめた伏龍でなく、元に戻らぬささやかな小物ひとつに涙した女としての感情。公瑾のこころにわずかな興味がわいた。ほんのりと口角を上げて庭を見る。
「因みにお訊ねしますが、昨夜の出来事はどれほど記憶されておいでで?」
「……ご迷惑をおかけした上にお恥ずかしながら、簪を落とした辺りからとても曖昧なのです」
「おや。はっきり受け答えをされていたので、それほど酔っていたようには思えませんでしたが」
袖を持ち上げて微苦笑を覆う公瑾の視線から逃れるように、孔明も庭に目をやった。隙を見せたくない男の傍で前後不覚とは何ともばつが悪い。
「あなたと話をしていたことを憶えてはいるのですけれど……」
脳裏で自身の行動を辿っていけども、簪を落とした辺りから不明瞭になって往生してしまうとつぶやく孔明の顔には愁いが満ちる。
それをちらと盗み見た公瑾は静かに笑みをたたえたが、ゆっくりと頭を左右に振った。
「あなたを部屋へ運んだあと私は広間へ戻りましたので、申し訳ありませんが、その後のことは把握しかねます」
酒席から部屋へは戻れなかったことも付け足すと、孔明が明らかな無念のため息をついて肩を落とした。
「夕べも伺いましたが、これほど気にかけられる理由は何なのです? ――もしや、言い交わしたお相手からの贈物だった、……とか?」
そろりと袖が動いて公瑾の顔の半分が隠される。動作に漂った清涼な匂いは寝台の上で香っていたものと同類だろう。
探るような細い目線に、けれども問われた孔明は目を見開いてきょとんとする。そこには相手の意を図る陰はなく、瞳にはただ単純に疑問を浮かばせているようにしか見えなかった。
これだ、と公瑾はふと思う。
ひとの思いを掌で転がす策謀の士でなく、孔明個人が無防備に晒されるこの瞬間に気持ちがざわつく。どのような方向の感情なのかはわからない。けれど、彼女を落とすために突くのならこういうところなのだろうと、公瑾はとっさに考えを巡らせた。
そんな公瑾に、孔明はふっと自嘲気味に笑った。
「確かに人様から頂戴したものですが、もしそんな方がいたのなら、私は玄徳様の下に参じず、こちらへも来なかったでしょう」
「しかし、約束は叶わないと言っていた」
「……私だけが、その気になっていたのでしょうね」
孔明はゆっくり目を伏せ、それからやさしい微笑を浮かべた。
指先を重ね合わせて淑やかに佇むその姿に、公瑾が知れずに息を呑んだ。触れなば落ちん風情とまではいかないが、ほんのわずかに突けば脆く崩れてしまいそうな危うさを感じた。
視線を動かさないまま見つめていると、孔明が小首を傾げて名を呼んだ。意識を奪われていたその隙を見破られぬよう、公瑾は努めて平静を保った。
孔明は今一度室内を探索したいと申し出た。しかし、返答を渋る様子の公瑾に慌てて思いなおす。
「すみません。不躾でした」
「いえ、ご自由にと言いたいところですが、……私が不在の間、勝手に出入りをされる方もいらっしゃる様子がありますので」
「それは……面倒ではすまないでしょうね」
大方、行儀見習いの侍女が公瑾を目当てにやってきているのだろう。鉢合わせだなんて恐ろしい。孔明は小さく身を震わせ、苦虫を噛み潰したように唇をわななかせた。その様子に苦笑した公瑾がしばらく私室へ戻ることは叶わぬと言って代替案を提示する。
「侍女に申し付けて改めさせましょう。その報告はあなたに届けるよう言いつけておきますから」
「申し訳ありません。お手数をお掛けしますが、どうぞよしなに」
深々と腰を折った孔明に、公瑾は唇に笑みを模ったまま請け負った。
そして、のんびりとした動きで上体を戻した孔明の顔は、常の平坦な表情に戻っていた。
「話は変わりますが、公瑾殿。軍議の内容をお訊ねしてもよろしいですか?」
「まだお話できるほどまとまっていないので、後ほど時間をいただきたく思っています」
「江陵攻略に私の意見を問われますか?」
公瑾の視線が厳しく細まり、声音が幾分か硬くなったのを受けて孔明がほくそ笑んだ。
「周都督。あなたが要地と好機を見逃すはずがない」
先刻と打って変わった孔明の挑発的な視線の凛凛しさにぞくりとして肌が粟立った。見事な転身に畏怖と興奮の双方が混じりあってこころが沸き立つ。やはり彼女を消しておくべきだと考え、けれども存分に競い合ってみたいとも思う。裡にあるこの惑いや好奇心は危険な誘惑であり、非常に分の悪い博打のように感じられる。誤れば身を滅ぼしかねない。敵陣にあれば厄介この上ないだろうが、自陣にいればこれほど頼もしいものもなかろう。
「……あなたはまるで千里眼をお持ちのようだ」
「その喩えは大仰ですね。少し考えればわかりますでしょうに」
合議の結果を期待せずに待っていると言って、孔明はそろりと頭を下げて踵を返した。その背中を眺めていた公瑾も間を置かずして歩き出した。
孔明は扉を後ろ手に閉めてその場にたたずむ。簪はもちろん気にかかるが軍議も気になる。声がかからなかったことに多少引っかかりを覚えるが、強引に首を突っ込んで叩き出されてはたまらない。有り難みは薄いが、この先に起こるだろうことはいくつか頭にある。孔明は、その1件は頃合を測って一石を投じてみるもよしと片付けた。
問題は、簪だ。格子から入る陽光を足下に見た彼女は、よろりとおぼつかない足取りで寝台へ行った。きれいに整えられた寝具の上に尻を落とし、そのまま仰向けになって後方に倒れこんだ。薄暗い天蓋に向けて両腕を伸ばし、手のひらを広げる。いくら返してみても何も落ちてはこないし、何も残されていない。落ちた袖から現れた素肌に触れる室内の空気はまるでこの世界のように冷たかった。
恐ろしい感覚に身を震わせる。こうして歯崩れするよう突如として失われていくものなのか。自身でも気づかないうちに取り上げられ、なかったことにされてしまうのか。そうしていつまでも過去を、起こりうる未来を悲嘆し続けるというのか。
――それが、この身の運命だというのか。
折り畳んだ腕で目を蔽う。もはやため息すら出ない。
「思い出だけだって残してくれてもいいじゃない……」
哀しみに震える声は、切ない吐息と一緒にどこへも響くことなく消える。
やがて表情の乏しい侍女が、公瑾の部屋に求めているものは欠片もなかったとの報せを持って現れた。
それに打ちのめされた孔明は、その日の食事にはまったく手をつけられなかった。
しばらくは何処からも、誰からも声をかけられることのない日が続いた。
何かしらの動きがあるはずだと踏んであちこちを訪うものの、居留守を使われたり、世間話などではぐらかされたりで心中には苛立ちばかりが募った。表面上は穏やかに対応をしてみるけれど、ああも揃ってあからさまな態度を取られては気分も悪くなる。
今度こそはと、今日こそはと意思を固くした孔明は、玄徳から贈られた薄紅の上掛けを羽織り、羽扇を握りしめて部屋を出た。
京城で孔明が自由に行動できる範囲は非常に狭い。同盟相手とはいえ、自軍ではない人間に本拠をうろつかれるのは迷惑だ。立場が逆なら孔明とてそうする。城内外の詳細を知られるなど以ての外だ。
さらに面倒なことで、若い侍女がひとり付けられた。不自由のないようにという名目だったが、それを額面どおり受け取ると侮ってもらっては困る。まだ城へ上がったばかりの新人を寄越すなど、大胆なことをしてくれるではないか。孔明は舌打ちしたい気分を隠し、娘へはにこやかに対応をしてみせた。
拙い監視が付いたからといっておとなしく待っているわけにはいかぬと、孔明は娘の姿がないときを見計らい、二度三度と公瑾の執務室を訪ねたがやはり不在であることを衛兵に告げられる。行き先を問うてもわからぬと首を振られたので、違う人物を求めて回廊を進む。途中、子敬を発見して単刀直入に公瑾の行方を訊ねたが、のらりくらりとかわされてしまった。拱手して去ってゆく後ろ姿にため息をついてその場に立ち尽くしていると、今度は逆に孔明がつかまった。振り返って正体を認めるなり、顔を顰められる。
「――子瑜、殿」
「亮。少し良いか」
「ええ、まあ。私は暇なので構いませんが、お勤めはよろしいので?」
他人行儀な遣り取りに子瑜は眉根を寄せたが、孔明のまっすぐな視線に改める様子がないことを見てすぐに諦めた。回廊を促して空いている個室に入り、席を勧める。
屈を脱がず、高座に浅く腰掛けた孔明は、羽扇を緩く振った。
「先に申し上げておきますけれど、仲謀殿にお仕えする気はありません」
「……亮」
「玄徳様の名代としてこちらに渡ってきたのですから、用が済めば帰ります」
「私の言いたいことはそういったことではないのだよ」
「血縁がいるからとて負かることなどひとつもありませんが?」
しっかりと目を見つめて言う孔明に、子瑜は額を押さえてため息をつく。
「だからそうではなくてだな……。お前、周都督とはどうなのだね?」
「……はい?」
問われるところがわからなかった孔明は、表情を変えずに首だけを傾げた。子瑜は袖口を合わせて孔明の前に立つ。
「あまり表立った噂にはなっていないが、お前と周都督がどうにかなるのではないかと」
「どうにか? ですか?」
首を傾いだ孔明に、皆まで言わせるなと、子瑜。頭痛を感じたが眉間を寄せるに留め、本気で理解に及んでいないのかと訝って孔明の顔を見つめた。興味のあることには寝食を忘れて打ち込むというのに、そそられぬことには指一本すら動かすことを厭う妹の行く末を、属する陣営や仕える主こそ違えど、心配する兄の気持ちすら汲む気もないのだろうと思えば涙も出やしない。
「……ここ数日、周都督を探して方々に声をかけているというではないか」
「だから何だと言うのです」
「亮、良いか。いくら薹が立っていても、お前は女で彼は男だ。都督を追い回しているという風評は互いのためになるまい。お前にその気があるのなら話は別だが」
「な――、冗談じゃありません! 何ですかそれは!」
すっくと立ち上がって孔明が怒鳴ると、その勢いに子瑜が目を見開いた。驚愕に丸められた眼に見つめられている内、我に返った彼女は場の空気を変えるよう咳払いをして座りなおした。
「噂の出所は、どうせ公瑾殿に付き纏っていらっしゃる方々でしょう? 本気にするほうがどうかしてします。大体、私がここにいる理由を鑑みればそのようなことあるはずもない」
「亮」
「……仲謀殿に参見したくとも拙い理由で謝絶されつづけ、その上、公瑾殿が江陵へ出陣なされているのに、私がくだらぬことに現を抜かしていたとあっては、わが君に合わせる顔がありません」
孔明は羽扇で口元を隠しながら、目線鋭く子瑜を伺う。この時期、公瑾が京城から姿を消す理由は、過去を振り返ってみてもそれしか考えられぬ。案の定、子瑜はぎくりと表情を強張らせて幾分か視線を泳がせたが、孔明は己の言が正しかったことを知り、表した厳しさを和らげることはしなかった。
子瑜は「諸葛孔明」の兄だ。しかし、仕える主君を異にするものでもある。すでに互いの立場があるこの場合、兄妹の馴れ合いで済むことはない。
手を繋いで仲良くしましょう、などという選択はもはやない。どちらかが潰され、いずれかが版図から消えることでしか分かり合えないところに立っている。
――「花」は、もういない。この国にあって相争うものたちを繋げることが出来たかもしれぬ希みを持っていた存在は、もうどこにもないのだ。
ゆっくり立ち上がった孔明は子瑜に対して軽く腰を折った。
「兄上様から仲謀殿へ、私との面談の口添えをお願いします。公瑾殿が何を考え、主君へどのようなことを言い含められたのかは存じませんが、わが君は、取り合った手をすげなく離すような御方ではありません。そちらから此度の盟約を破棄されるまでは」
同盟はほぼ成立している。なので、孔明がここに残っている意味はあまりない。
けれど、このまま玄徳の元へ帰参して公瑾必殺の難癖を付けられることだけは避けたかった。情報操作も策の一環、自身の行動如何によって玄徳に悪評を纏わせるくらいのことなら、公瑾は手軽にしてのけてくれるだろう。早々に玄徳軍へ帰りたいし、実際帰ろうと思えば出来ないこともないと思うのだが、些細なことでも回避しておきたい気持ちを孔明は強く感じていた。
未だ玄徳は本拠を持たない流浪同然の身。領域が広大であり将の層は厚く、兵数も多い孟徳軍にしてみれば、立て直しに時間がかかったとても、仲謀と決裂した玄徳を追い詰めることなど赤子の手を捻るようなものだ。そしてまた仲謀軍も、孟徳軍の再度の侵攻の際には先例の如くに降伏論が噴出するだろう。三代に渡って仕える張子布すらそれを唱えたことを思えば想像に難くない。
それでは困るのだ。玄徳のために、仲謀にも河北を睨んでいてもらわねばならない。
渋面の子瑜を、孔明は静かに見守る。
明確に言わずとも、子瑜は理解しているだろう。北を警戒して足並みを揃えることは、玄徳だけの利にあらずということを。
無言のままの子瑜に、孔明はお願いしますと重ねて言って頭を垂れ、返答を待たずしてその部屋を出ていった。やさしいひとに厄介を押し付けて申し訳ないと思うが、こちらにも都合がある。いつまでも玄徳の傍を離れているのは危険だ。
公瑾に連絡を取られたら面倒だが、一両日中に戻ってこられる距離ではなし、さらに断ってくるというのなら、逆に今後の方向を決めやすくもなるというもの。
孔明は羽扇をはためかせながら、部屋へ戻った際に文句を言われるだろう目付役の娘への多数の言い訳をいくつも脳裏に浮かべていた。